井の中の蛙は幸せ者だ

戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながらのタイトルが、非常に挑戦的に感じた。

それは、『幸せに包まれて死ぬ』という表現にある。
"死ぬ"というのは全否定のようなニュアンスを兼ね備えている。
"幸せ"というのは善いことではないのか。そのような生き方を否定するのか。
私が、こう感じてしまったのは、id:Hash氏とわたしの、生きる目的に相違があるからだろう。

苦痛から逃がれるために、生きる

『ねえ、何のために生きてるの?』

生きるために、わざわざ目的を持つ必要はあるのだろうか。目的がなくたって、人は生きようとする。なぜか。生きることを放棄しようとすると、痛いから。辛いから。怖いから。そういうふうに、人間のからだはできている。だから、自然と生きようとするし、身体や心が壊れれば自然と滅びようとする。

生きるためのハードルが下がった世界


衣・食・住。
生きるために必要なものが簡単に手に入るこの国では、昔と比べて生きるためのハードルが下がった。もう、必死になって野山を駆け巡らなくても、ちょこちょこっと簡単なお仕事をするだけで食うに困らない。もっと極端に言えば、生まれついた以上、生きる権利が保証されているので、稼ぎがなくとも生活保護で、罪を犯しても刑務所で、生きていくことはできる。

『ねえ、何のために生きてるの?』

そう悩むのは贅沢なのかもしれないが、生きるためのハードルが低い世界では、こんなことを思うようになるのも自然なのかもしれない。こんなことを考えてるだけの余裕があるのだから。

それでも遠くへ進もうとする


現代の科学力では、まだ不老不死の技術は確立されておらず、痛さ、辛さ、怖さからは誰しも逃れることはできない。人生は有限だ。しかし、痛さ、辛さ、怖さからなるべく遠いところに進むことは、無駄ではない。まだ見ぬ、不老不死の技術を信じているならば。私は、自らの"意識"と"記憶"を保ち、"思考"と"行動命令"さえできれば、四肢を失おうとも、代替の機械で構わないと思っている。それで200年も300年も生きられるのならば、生身の肉体なんて安いもんだ。

…なんて、そういう理屈があったりなかったりするが、実は、ただの"臆病"にすぎなかったりする。痛さ、辛さ、怖さを物凄く嫌悪する。難癖つけて挑戦することをやめる。リスクを嫌い、高みを目指さずに、そこそこの人生を歩んでいる。

どうせ生きるなら、"幸せ"を感じていたい


"臆病"なくせに、幸せに生きたい、という欲望はある。どうせ生きるなら、少しでも長く"喜び"を感じていたいというものだ。"幸せ"の定義は人それぞれあるだろうが、主に3つの尺度によってわかれるのではないだろうか。

  • "幸せ"を感じる3つの尺度
    • 絶対量
      • 絶対量は、幸せな要素が多ければ多いほど幸せを感じるもの、という考え方だ。資産は多ければ多いほどよい。得点は高ければ高いほどよい。
    • 相対量
      • 相対量は、幸せかどうかは、他と比べて感じるもの、という考え方だ。『他人の不幸は蜜の味』。
    • 変化量
      • 変化量は、幸福度の変化の傾きが急なほど幸せを感じるもの、という考え方だ。人生は挑戦だ、人生はギャンブルだ、という人もいる。


井の中の蛙』は、井戸の中の世界では、相対的にみて、自分より優位なものはいない。だから"幸せ"だ。一方で、井戸の外には、この諺を唱えた、蛙の観測者がいる。井戸の中より絶対的に優位な世界に居て、井の中の蛙の、絶対量の小ささを哀れんでいる。しかしこれまた、井戸の外には、自分より遥かに富む者が居て、相対量という尺度では不幸に感じるのかもしれない。

井の中の蛙は幸せか


私は、相対量>絶対量>変化量、と感じる人間だ。人と比べて、自分の優位性を確認し、安心する。だから、『井の中の蛙』を羨ましいとさえ思う。井の中の蛙は、歴史に名を残すことは無いが、幸福感に包まれて死ぬのだから。私も、井の中の蛙のような生き方で満足だ。ああ、そうに違いない。そう考えている。いや、考えようとしているのかもしれない。


…現実はそうもいかない。荒れ狂う情報洪水は私を飲み込み、凄まじい勢いで、世界最高峰を観測できる場所まで押し流す。知ってしまったことで、幸福の器の上限が拡張されてしまう。もう、より上の世界を知らなかった頃の自分には戻れない。上を知ることで、相対的幸福を失ってしまったのだ。
蛙だって、たまたま水汲み桶に入っている時に引き上げられ、外の世界を見る機会が訪れるかもしれない。しかし、桶から跳び出す勇気もなく、外の世界に飛び出すことの無いまま、井戸の底に戻ってきてしまった。それでも幸せだろうか。井戸の中の世界だけで満足できるのだろうか。なんとか自分の中で言い訳して、現状を納得するよう説得し、いつか死を迎えるのだろう。そこにある、幸福感は、おそらく、小さい、ものだろう。

私の人生と重ねて


私の人生の節目には、よく似た2択の岐路が3度現れた。高校受験、大学受験、研究室選択だ。どれも共通しているのは、2択となる選択肢の内訳で、

"自分に相応しいレベルで、入るには多少のリスクが伴う*1"
or
"自分にはもの足りないレベルで、入るためのリスクがほとんどない"

というものだった。わたしは、常に後者を選んだ。3度とも蛙の道を選んだのだ。案の定、リスクを取って高みに進む友人を見て、嫉妬し、悔しいと思った。が、自分を納得させるために、今の環境でしか出来ないことをやった。そうやって、自らを説得してきた。また、他の面々よりも自分の優位さを確認して、幸せである、と思い込んできた。

再び、人生の岐路に差しかかる


2009年4月現在、私は就職活動生である。私の就活といえば、やはりというか何というか、世界的な金融恐慌からの各種報道にビビリまくり、最もリスクの小さいと思われる方法で、身分相応だと思い込んでいる企業を受け、そこに決まれば充分かなと思っていた。そう、昨日までは。

昨日、その企業の最終選考で、人事部長の方に、私が人生の岐路を前にしたとき、選ぶ基準にしていたものを、真っ向から否定されたのだ。さらに、私が判断を覆せばその方に迷惑がかかるのを承知で、もう一度、ちゃんと自分で判断するよう求めた。その時は、すぐさま反論しようと思ったのだが、相手の熱意と勢いに押され、相手の話を割ってでも主張しようとしたが止めざるを得なかった。

ここにきて、初めて就職活動で悩むことになった。新たな選択肢を提示されたのだ。いや、今までずっと気付いていたが、目を背けていたものと、ようやく向き合う時が来たのだ。もっと高みを目指すべきか。自分にはそれだけの能力が備わっているのか。わからない。が、得たものがある。どちらの選択肢を選ぼうと、『覚悟』と『責任』は強く持つことができる。


自分の人生、最後は私が責任を持つのだ。

井の外に出た蛙は幸せになれるか


水汲み桶から跳び出した蛙は、幸せになれるのだろうか。井戸の外には、今まで経験したことのない、恐しい体験が待っているだろう。巨大な生物に食われるかもしれない。水場から遠いところで彷徨ってしまうかもしれない。生き残れるかどうか、蛙の持つ『覚悟』が、その差をわけるのかもしれない。こんな酷い目に合っているのは、水を汲んだ人間のせいなんだ、と、責任を放棄しているような蛙は、きっと生きることを諦めてしまうだろう。しかし、井戸の外の世界で生きると『覚悟』した蛙は、窮地に立たされても、自ら生き抜いていこうとする。希望は最後まで捨てない。そして、生き続ければやがて、井の中では絶対手に入らない大きさの幸福を掴むことができるだろう。


私は、水汲み桶から跳び出す勇気を、人事部長から貰った。おそらくこんなチャンスめったにない。


翔んでみよう。


Hash氏に感謝

それでも、長期的にやりたいことをやるためには戦略という名の道筋が必要だ。今の僕にはそれがなく、このままでは独自のミームを残すことなく死滅する。

戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら

私との決定的な違いは、『独自のミームを残すこと』を人生の目的としているところだろう。私自身はとうに諦めてしまっている。理由は、環境*2に恵まれなかったから。だけどこれも、親への責任転嫁に過ぎない。自分で出来ることを全てやる前から、自分には既にハンデがあるからという理由で怠けているだけだった。ただし、我が子には両親よりもよい環境を提供できるという根拠のない自信を持っているので、その役目は我が子に託そうかな、なんても思っていたりした。今思えば、なんて身勝手で言い訳臭いのだろう。見苦しい。


また、

このうち僕がもっとも重視する要素は、最後の 社会勉強としての就活 だ。

「内定してからが本当の就活だよ」 - ミームの死骸を待ちながら

という考えには同感で、最終面接で、他者の選考を全て辞退することを求められた際、それを拒否した*3ために、今回の流れになった。私の説明が悪かったせいか、人事部長には『社会勉強としての就活』に対して同意を得られることはなかったが、変わりに自分を大いに悩ませる言葉を頂くことができた。


id:Hash氏の数々のエントリは私の知的好奇心を刺激し、私の人生に大きな影響を与えようとしている。このことは私にとって、とても喜ばしいことだ。私もいつか、氏の役に立つようなことができるのだろうか。

研究室に入って2年が経つけど、研究に関する知識はほどんど増えなかった。けれど自分と向き合う時間をたくさん持てたし、性格や価値観もまるで変化した。大学には貢献できなかったけど、この経験は人生に貢献した。

はてなブックマーク - key_potpotのブックマーク / 2009年3月26日

プログラマってのはGooglerみたいな人のこと。ITドカタはコーダ。この記事では前者を対象としていて納得。自分は作業ゲーRPGもそこそこ我慢できてしまうので、プログラマには向いてないと思って、そっち方面を諦めた。

はてなブックマーク - key_potpotのブックマーク / 2009年4月23日

私が他所の記事につけた2つのブコメに対して、スターを頂いた。とても嬉しかった。些細だけれど、小さな一歩を、踏み出せたのかもしれない。

いつか私も


憧れのブロガーがいっぱいいる。もしかしたら、自分もそこに辿りつきたいという欲があるのかもしれない。そのような立場ならば、記事ひとつで誰かの人生に影響を与えるというのも不思議ではない。自分の書いた記事が、他人の人生に影響するのだとすれば、それは物凄いことだ。私は自分の体験を、再利用しやすい形で保存しておくことが、自分の生きる価値を確認することだと思っている。人が悩んでいる記事を読んで、物事の考え方を深めてきた。私も、自分が悩んだ際は、記事として出力し、自分の考えを整理するとともに、他人の役に立てられればよいな、と願う。私がブログにおけるROM専という狭い井戸の中から跳び出したのは、やはり外の世界を知ってしまい、今の世界を納得しきれない自分がいたからなのだろう。


私という蛙の冒険は、始まったばかりだ。

*1:つまり、落ちる=1年棒に振る

*2:地方、金銭、情報等。とはいえ、高望みすれば誰だって満足いかないようなものだし、一方で自分は親にとても感謝していて、すごく恵まれているなあとも思っている。

*3:嘘をついてYesと言えばいいものの、面接の手応えから自分は合格しているだろうとたかをくくり、正直に答えて誠意を見せようとしてしまった