自分への"甘さ"が、成功へと導いてくれる

「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点 - ミームの死骸を待ちながらを読んで。

うまいこと、自分説明書ができそうなので勢いで書いてみる。
私のモチベーションコントロールのメカニズムがうまく説明できそうな気がする。

甘えん坊、見参

私は甘えん坊だ。とことん自分に甘い。甘やかされて育ったうえに、自分自身を甘やかして育ててきた。だから最近はなんとかしなきゃ感が結構あるんだけれど、それでも、まだまだ、甘ちゃんだ。*1

そんな私が、何よりも優先してきたこと。それは『我慢しないこと』だ。ストレスなんてもってのほか。とにかく気の向くままに、やりたいことをやる。もちろん、人に迷惑をかけない範囲で。*2

さらに自己説得が得意なので、ほとんどストレスフリーな人生を歩んでいる。だから、ある意味本当の意味での『ゆとり』なのかもしれない。私はゆとり世代ではないが、『ゆとり』なのは間違いない。『ゆとり』と呼ばれても、事実なので否定できない。*3

うーん。自分のことながら、これは情けない人間だな。どうにかならんかね。けれど、我慢するなんて選択肢は選ばない。ここは甘えん坊らしく、『甘え』を正当化しようと試みることにする。

無駄が大嫌い、効率が大好き

夏休みの宿題。私は、最後日までためてしまうタイプである。(面倒なもの残して親に手伝ってもらうことになる)
テスト勉強。私は、一夜漬けで済ましてしまうタイプである。(試験範囲の8割程度しか仕上げられずに臨むことになる)
資格試験。私は、ラスト一週くらいから勉強を始めてしまうタイプである。(過去の合否の成績は負け越しである。)


このように、見積りが甘い。というか、見積ることしない。小学校の夏休みの宿題の"計画を立てる"が嫌いだった。だって、その"計画を立てる"ために使う時間使って、宿題をこなしたほうがいいからだ。いくら素晴しい計画を立てようとも、宿題は1ページとして進まない。同級生の『なつやすみ の けいかく』のページが、とても綺麗に彩られていた。同級生の満足げな顔があった。狂気の沙汰としか思えなかった。

理由が知りたい、言いなりにはなりたくない

今では、"計画を立てる"ことの重要性を、知識として得ているので、どのような計画の立て方が大事か、色々と試している。自分にあったものを模索している。その行動の重要性や、やるべき理由さえ理解できれば、自ら積極的にやってみようという気持ちになるし、そこにストレスはほとんど感じられない。むしろ楽しむことさえできる。

彼らは目標が設定されないルーチンワークが死ぬほど嫌いである。そのため、なるべく短期的かつ具体的に、求める成果を明らかにしておく必要がある。なぜなら彼らは、ゴールを明らかにすることではじめて、必要な資源を検索し始めるからである。

また、彼らは全貌の見えない仕事がルーチンワークと同じくらい嫌いである。
今自分が何をしているのか、全体の中のどこに位置するのか、いまこの瞬間は一体どんな価値を生んでいるのか。これを知らないと不安に押しつぶされそうになる。

「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点 - ミームの死骸を待ちながら

まさにその通りで、私は、よくわからないまま、人にコントロールされて行動することに、とてもストレスを感じる。逆に、同じ行動でも、やるべき理由やら事情やらが判っていれば、ストレスをおおきく減らすことができる。知らないこと、わからないことがストレスなのだ。

だから、子どもの頃は、ストレスだらけだった。頭では理解できるのに、大人は子ども扱いして、ちゃんと説明しようとしない。そりゃあ経験の少ない5歳の子どもに、理解するのは難しい事柄もたくさんあっただろう。けれど、私は説明されればちゃんと理解しようとするし、大人が見積っているよりも理解する能力があった。

私の子どもの頃のことを母にきくと「大人と話しているかのように会話できる子ども」だったという。私の妹や弟を育てる過程で初めて、子どもが理解できるよう、わかりやすく喋らないといけないんだ、と気づいたそうだ。見た目は同じような子どもでも、ひとりひとり得意なものがある。わたしは、運動することや、人や動物の感情を理解するのは苦手だったが、機械の仕組みや、数字や法則や記憶には強かった。だから、子どもというひとくくりの扱いをするのではなく、○○くん、○○さん、と、一人の人間として接するべきだ。


「子どもの頃に戻りたい」とよく聞くが、私はそう思わない。ちゃんと一人の人間として扱ってもらえて、理由を問えば説明してくれる今のほうが、ずっと幸せだ。ただ、大人のいうことをきちんときいていれば、よい子よい子と褒めてもらえる子どもなんてまっぴらだ。言いなりになり続けるなんて嫌だ。理解しないまま褒められるなんて最悪だ。褒められなくてもいい、理由が知りたい。

『我慢しない』を正当化する

試験前にいつも思う…。なぜ、もっと早く着手しないのか。直前で、いつもそう思うのだが、たとえ失敗しても、案外、後悔しない。だからまた失敗を繰り返すのだが…。


例えば2週間後までに終わらせるべきタスクがあるとする。そのタスクをこなすために必要な時間は約40時間。1日3時間程度の出費が必要だ。ちなみに、この3時間というのは、1日24時間中の3時間ではない。私が1日に脳をフル回転させてひとつのことに集中できる時間は、せいぜい5時間程度であり、1日5時間中の3時間だ。割合としては結構デカいものになる。こうやってあらためて分析すれば、他のことに手を出すような余裕はない。けれど、2週間前だと、「まだまだ余裕はあるさー。40時間?3日あればじゅーぶんだよ。」なんて、甘っちょろいこと考えて、自分をごまかしがちだ。だから、毎回、同じように、失敗を繰り返している。そして、大して後悔しない。


普段の私は、その時"これはおもしろい!"と思ったものをやることにしている。効率が大好きなので、"これがやりたい!"と思ってるときに面倒な勉強にとりかかるのは、とても無駄なことに感じる。頭がやりたい事にとらわれて、なかなか集中できないからだ。"これはおもしろい!"と思っているうちにやらないと、後でやろうとしてもその頃にはすっかりモチベーションが下がっていて、やはり効率が悪い。*4


だからタスクを後回しにする。一応、やりたいことを、我慢すべきか、我慢しないべきか、一瞬考えるが、まだまだ余裕があると見積って、我慢しないほうを選択する。そして、"やりたい事"は一定の成果を挙げるので、満足することができる。我慢していれば得られない満足であり、我慢しないほうを選んだことを、正当化するひとつの理由になる。


更にこのあと、少々キツめのスケジュールに書き直し、そのタスクが消化できれば万々歳だ。効率よく、無駄なく、達成することができる。『我慢しない』という『甘え』が、プラスに転じるんだ。…なんてことは夢物語で、たいていは、突発の緊急タスクが入って、ゆとりのないスケジュールは頓挫し、失敗に終わる。なので、『甘え』がプラスになるなんてのは、幻想にすぎない。

甘えの対抗は、義務感

母が甘やかしてくれるのに対して、父はとことん厳しい人だった。だから私は"義務を果たす"ことを強く意識している。本物の甘えん坊なら、宿題の日記なんて面倒だからやらないだろう。だけど、うちではそうもいかなくて、宿題という義務を果たさなければ、自由はないのだ。父が帰ってくるまでに日記を書かねばならないため、父が帰るまでは好きなように甘えて先延ばしすることができるが、最後には必ず書かねばならなかった。

こういう経験から、"追い込まれたら必ずやる"とか、"追い込まれると何故かやる気が湧いてくる"とか、"期日になると何故か出来ている"というような現象が起きるようになった。前に心理テストをやったとき、あなたが最も重視するのは『達成』です。という結果が出たのだが、おそらく義務感の強さのあらわれだったのだろう。

根は真面目なので、やりたくないような宿題とか試験とか仕事とかは、『やるべき感』を使ってなんとかこなす。後回しになりがちなものも、締め切りさえあればそれまでにこなす。この感覚があったからこそ、高校までは、そこそこやってこれた。そして、自主性を求められる大学や、研究において、苦労することとなる。

"どっちかというとやったほうがいいもの"って、やらないよね

だって、他にもやりたいことがあるんだもん。


大学の研究なんて"どっちかというとやったほうがいいもの"の際たるものだ。頭ん中では、もうちょっと頑張れば楽しくなりそう、とか、評価が上がれば嬉しそう、とか、そういう風には思うんだけど、やりたいと強く思うまでの隔りは大きい。

それに研究なんて、よくわからない道程を、色々模索して進んでねっていうものだ。苦労して進んだつもりでも、間違った方向に突き進んでいれば、(研究成果としては)まったくの無駄である。とても嫌いな"無駄"である。どうせ苦労するなら、目に見える形でないと安心できない。まるで砂漠を彷徨うかのようだ。苦労して歩いても、足跡は砂がかぶって消えてしまうし、風景が変わることもない。オアシスが見えてくるかもしれないが、この方向を信じて進んでもよいだろうかという疑念で、次の一歩が躊躇われる。


だから私は長い間、研究に没頭するところまで辿りつくことができず、気付けば、残された時間もあとわずかとなってしまった。

モチベーションをランクアップするため資格試験に申し込む

"今、これをやりたい"という気持ち、『やりたい感』。
やりたくないけれど、やることは決定事項である『やるべき感』。
この2つのどちらかの感覚が生まれたとき、取り組んだものは最後までやり抜くことができた。
どうやら、私の動機の優先順位付けはこんな感じだ。

普段「やりたい感 > やるべき感 > やったほうがいい感」

締切間際「やるべき感 >>>>> やりたい感 > やったほうがいい感」

だから、『やったほうがいい感』なものは、ほぼ、完遂することはない。『やったほうがいい感』なものは、汎用性の広く、価値を発揮できるものが多かったりする*5が、我慢を伴なうため、やはり後回しになりがちだ。


だから、『やったほうがいい感』なものを、自分にやらせるために、資格試験を申し込む。『やったほうがいい感』から『やるべき感』にランクアップさせる。それに、就活の役に立つから、とか、手当てが出るから、とか、そういうエサも一緒につける。そうすると、あまり気がすすまないことでも、ストレスを抑えつつも取り組むことができる。

私が抱えるタスクと、私の取り組み具合を説明してみる

私の研究は、まだまだ成果が上がってないものの、秋に発表の予定が入った。締切が設定され、義務感が生まれた。よって、ここから急加速していくと予想される。それは、『やったほうがいい感』から『やるべき感』にランクアップしたからだ。今の緊急のタスクが終わり次第、通常の最優先事項となるだろう。


実は私は、今週の日曜日に資格試験を受験する。あと2日だ。で、そのためには最低でもあと20時間ほどの勉強が必要で、状況は絶望的だ。資格試験を受けるということは『やるべき感』が発生するはずなのだが、今回はそれが薄い。なぜなら、勉強すること動機を得ることが目的で、資格自体にはまったく魅力が無いからだ。専門用語などの概念はある程度理解することができた。あとは、試験用にカスタマイズされた小手先のテクニックを反復練習して、身体に染み込ませるという、気ののらない作業が待っている。それにどれだけの価値があるか、今の時点では理解できず、資格試験を受けること自体が『やったほうがいい感』に収まってしまった。


そして、今、このエントリを2時間かけて書いている。これはもう正に『やりたい感』のあらわれでしかない。今、かの記事を読んで感じたことを、勢いにまかせて書かなければ、こうやって自分のモチベーションを分析する機会を失ってしまうことになる。だから、今、思ったことを文章として残しておこう。資格試験の勉強?そんなものに本当に価値があるのか?自分には、こっちのほうが大事なはずだ。この記事のほうが大事なんだ。


自分への"甘さ"が、成功へと導いてくれる

このエントリ自体が、自分への"甘さ"を表現したものだ。このエントリにどれだけの価値があるか、わからない。これを書くために考えたことに価値があるかも、わからない。けれど、資格を得るよりもいいものが書けたことに価値を置きたい。それを確認する機会はあるのだろうか…。


それにしても、嫌なタスクを目の前にすると、筆が進む!しみじみ。

*1:だからtwitterで、「○○なのは甘え」ってよくpostしてる

*2:ここ重要!これがないと自分勝手な奴になってしまうので

*3:※本当に呼ぶと、「そうだよっ、ゆとりだよっ!」と、ちょっと嬉しそうな反応をするので注意

*4:勢いが失速して書きかけとなってるエントリがいくつかあるが、再び着手されることはまずないだろう…

*5:各種学習が該当、英語とか資格とか