中立という立場を嫌う人
それは中学3年の春のことだった。放課後。臨時クラス会。
テーマは、
『音楽会の曲目について』
中学生と音楽の時間
中学3年生といえば、思春期まっさかりで、やれ恋愛だの、やれ反抗だの、毎日毎日、どこかしらでトラブルが起きていた。けれど、皆それぞれ成長していくもの。不真面目で荒れているような奴が、文化祭なんかで強力なリーダーシップを発揮して、目覚しい活躍を見せたりする。個人だけでなく、集団でも、大きく成長することがある。うちのクラスの場合、音楽会がその舞台だった。
音楽会では各クラス一曲ずつ合唱の発表がある。どうやって曲目が決まるかというと、中学生に相応わしい合唱曲の中で、音楽の先生がそれぞれのクラスに合った曲を選び、「今年の音楽会はこれを歌いまーす」とかいって提案されたものとなる。で、3年目のこの年も、その流れで決まると思われていた。
音楽の先生は、指揮者として優れた能力を持っていて、吹奏楽部を大会で上位入賞させる評判の指導者だった。しかし、教育者としてはいまいちだった。生徒達の心を取り込むことが、あまり得意ではなかった。中学生にとって合唱というのは、子どもっぽい、照れくさいもので、歌うことを強制されるのはあまり好かれない。歌うことを強制する先生と、嫌がる生徒。そういう関係で、残念なことに、先生はあまり好かれていなかった。
特に、いわゆる不真面目グループは、先生が提案した曲なんて一切やりたくないっ!という態度だった。だけど、彼女らは、中学最後の音楽会、このクラスのメンバーで青春してやりたいっという気持ちがあった*1。だから、歌って踊れる楽しい曲がやりたいぞっと。彼女らは自分たちで曲目を決め、楽譜を用意し、先生に提案した。しかし、先生はそれを了承しなかった。そんなわけで、彼女ら"改革派"進行の臨時クラス会が開かれたのだ。
賛成、反対、どちらかに手を挙げて下さい
彼女らが用意した曲目は、某映画の劇中で取り上げられた曲だった。その映画は、英語の授業で観たものなので、クラス全員が知っている。なので、特に説明を入れるわけでもなく、臨時クラス会は多数決を採ることから始まった。
『賛成の人は手を挙げて下さい』
ほぼ全員が手を挙げた。同意するもの、こだわりがないもの、意見はそれぞれだろうが、ともかくこれで、多数決という観点では決着がついた。
しかし、ここで決着とはいかなかった。
『反対の人は手を挙げて下さい』
2つ、3つ、手が挙がった。彼らは彼らなりの意見を述べた。私は、そういう考え方もあると思った。
…ここで、進行役が首を傾げる。…人数が合わない…?
そして、
『手を挙げていない人はいませんか』
私は、手を挙げた。
白か黒かでは決められない。
私は、先生の言うことや決まりをきちんと守る優等生だった。リーダーシップはないが、真面目さを買われて学級長にも選ばれていた。けれど、面倒なトラブルを起こさないぶん、トラブルを対処することが得意ではなかった。今回の騒動も、一部の人が騒いでいるなあ、と傍観していた。学校の決まりの上でのリーダー、でしかなかった。
ただそれでも、音楽に関しては、誇りがあった。私は、合唱部の経験があり、前回の音楽会ではピアノ伴奏をこなし、この年の文化祭ではステージ発表を行うなど、皆の歌を引っ張っていく側の立場だった。みんなは好きじゃないという音楽の時間も、音楽の先生も、割と好きだった。
だから、率直な意見を述べた。
「どちらの曲目に決まろうとも、私は全力を尽くす。ただし、どちらかに味方するという立場はとらない。どちらの意見も平等に尊重したいからだ。」
しかし、
『どちらか決めて下さい』
……こいつら、思考停止か?
中立という立場を嫌う人
再び、改革派と反対派との対話が行われた。どういう心変わりがあったか、反対派は意見を取り下げた。これで今度こそ決着…。と思ったのだが、まだ終わらなかった。中立の私に、賛成するよう求めたのだ。
私は、曲目が決まったら、全力を尽くすし、誰よりも貢献する自信はあった。生半可な賛成派よりも、遥かに活躍できると思った。だから、これで決定してもらえればよかった。けれど、中立の意見を否とした彼女らの態度は気にくわなかった。賛成という立場を押しつけられることも我慢できなかった。だから、私は最後まで、『中立』の立場を貫いた。
泥沼化したクラス会は、担任の一言によって終結した。
『中立という立場も、一つの意見として認めてあげなければいけないよ』
彼女らの世界では、賛成か、賛成でないか、の2つの立場しかなく、中立という立場自体が悪だと思い込んでいたようだ。また、今考えれば、文化祭は全員一丸とならなければいけない!という一種の信仰があったのかもしれない。しかし、絶対的存在である担任の一言により、私の立場は保証され、集団としての意見も一つにまとまったとこととなった。
その後、決まった曲目を、クラスの総意として、音楽の先生に再び提案した。了承をもらい、指導いただけることとなった。私はというと、パートリーダーとして積極的に活動し、それを評価されてメインセンターの4人に選ばれた。音楽会の発表当日も、大成功となり、それまでの年にはない、自分たちで作りあげたという充実感に満ち溢れた。
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中立という意見について
今回、この昔話を書こうと思ったきっかけは、このpostについて思うことが色々あったからだ。
はてブのコメントで客観ぶって「判断は保留」とか言ってるやつが一番チキンで最悪。はてブみたいにあれだけ個人が保護された環境下においても自分の中にまともな判断基準を持てないような輩は普通にポピュリズムに突き動かされて差別とかヘイトスピーチとか何なら虐殺とか平気で荷担しそうな感じ
津田大介 on Twitter: "はてブのコメントで客観ぶって「判断は保留」とか言ってるやつが一番チキンで最悪。はてブみたいにあれだけ個人が保護された環境下においても自分の中にまともな判断基準を持てないような輩は普通にポピュリズムに突き動かされて差別とかヘイトスピーチとか何なら虐殺とか平気で荷担しそうな感じ。"
これを観た瞬間、クラス会でのやり取りがフラッシュバックし、強烈な嫌悪感を覚えた。こいつも彼女らと同じく『中立』を認めないのか。思考停止か。そして、Twitterに反対意見を書き殴ってやろうと思った。で書き出したのだが、
世の中は白黒はっきりつけられないものが多すぎて、とりあえずこっちがいいと思ってもその判断基準は完全ではないし、だからといってそれを恐れては何も意見は表明できないし、むずかしいもんだ。やりなおしができるうちに挑戦すべきだあさ
きぃ on Twitter: "世の中は白黒はっきりつけられないものが多すぎて、とりあえずこっちがいいと思ってもその判断基準は完全ではないし、だからといってそれを恐れては何も意見は表明できないし、むずかしいもんだ。やりなおしができるうちに挑戦すべきだあさ"
反対できなかった。何故なら、前回の記事にこんなことを書いていたからだ。
実現不可能な目標を持つこと、実現不可能な理想を求めるという行為からは、何も生まれない。答えの出ないものに対して、考えこみ、硬直してしまうのは、最悪だ。
失敗は悪ではない。行動によって、成功、失敗のいずれかの善が生まれる。
『自己説得』が『自信』を生み、『自信』は『行動』に繋がる - 鍵壺のWeblog
『行動』自体が善なのである。そして、行動しないこと、が悪なのである。
自分の持っている判断基準が完全であること。これは実現不可能だろう。だから、自分の判断基準が完全になるまで、意見を表明しないというのは、最悪の、最悪だ。もう一度、津田氏の発言を見てみると、
『中立』の立場を叩いているわけではないことがわかる。『自分の意見を表明しない』という姿勢を叩いているのだ。
どうせ議論に参加するのなら、自分の価値を残せよ、ということなのだろう。もっと利己的に言えば、おまえもなんか意見出せよ。ということだろう。その気持ちも理解できる。発信者の側に立つと、発信しただけの見返りが欲しくなってしまうのだろう。私はそう感じた。
「判断は保留」に価値はあるか
では、ブコメの「判断は保留」に価値はないのか。いや、当然、価値はある。ネットリテラシーの高い人がこの記事を読めば、まず違和感を覚えるのだろう。が、見出しの印象だけで、その結論ありきで読み進めてしまう人も大勢いるはずだ。そして、そういう人たちが、はてさて、どれだけ批判コメが集まっているんだろう、とブコメを覗いたとき、多くの「判断は保留」意見に出くわすことで、おや、これは、もっとちゃんと疑わなければならないのか、と気付かされる。
「判断は保留」には、内容の吟味と、今後の動向に注目、という意見が含まれているのだ。