井の中の蛙は幸せ者だ

戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながらのタイトルが、非常に挑戦的に感じた。

それは、『幸せに包まれて死ぬ』という表現にある。
"死ぬ"というのは全否定のようなニュアンスを兼ね備えている。
"幸せ"というのは善いことではないのか。そのような生き方を否定するのか。
私が、こう感じてしまったのは、id:Hash氏とわたしの、生きる目的に相違があるからだろう。

苦痛から逃がれるために、生きる

『ねえ、何のために生きてるの?』

生きるために、わざわざ目的を持つ必要はあるのだろうか。目的がなくたって、人は生きようとする。なぜか。生きることを放棄しようとすると、痛いから。辛いから。怖いから。そういうふうに、人間のからだはできている。だから、自然と生きようとするし、身体や心が壊れれば自然と滅びようとする。

生きるためのハードルが下がった世界


衣・食・住。
生きるために必要なものが簡単に手に入るこの国では、昔と比べて生きるためのハードルが下がった。もう、必死になって野山を駆け巡らなくても、ちょこちょこっと簡単なお仕事をするだけで食うに困らない。もっと極端に言えば、生まれついた以上、生きる権利が保証されているので、稼ぎがなくとも生活保護で、罪を犯しても刑務所で、生きていくことはできる。

『ねえ、何のために生きてるの?』

そう悩むのは贅沢なのかもしれないが、生きるためのハードルが低い世界では、こんなことを思うようになるのも自然なのかもしれない。こんなことを考えてるだけの余裕があるのだから。

それでも遠くへ進もうとする


現代の科学力では、まだ不老不死の技術は確立されておらず、痛さ、辛さ、怖さからは誰しも逃れることはできない。人生は有限だ。しかし、痛さ、辛さ、怖さからなるべく遠いところに進むことは、無駄ではない。まだ見ぬ、不老不死の技術を信じているならば。私は、自らの"意識"と"記憶"を保ち、"思考"と"行動命令"さえできれば、四肢を失おうとも、代替の機械で構わないと思っている。それで200年も300年も生きられるのならば、生身の肉体なんて安いもんだ。

…なんて、そういう理屈があったりなかったりするが、実は、ただの"臆病"にすぎなかったりする。痛さ、辛さ、怖さを物凄く嫌悪する。難癖つけて挑戦することをやめる。リスクを嫌い、高みを目指さずに、そこそこの人生を歩んでいる。

どうせ生きるなら、"幸せ"を感じていたい


"臆病"なくせに、幸せに生きたい、という欲望はある。どうせ生きるなら、少しでも長く"喜び"を感じていたいというものだ。"幸せ"の定義は人それぞれあるだろうが、主に3つの尺度によってわかれるのではないだろうか。

  • "幸せ"を感じる3つの尺度
    • 絶対量
      • 絶対量は、幸せな要素が多ければ多いほど幸せを感じるもの、という考え方だ。資産は多ければ多いほどよい。得点は高ければ高いほどよい。
    • 相対量
      • 相対量は、幸せかどうかは、他と比べて感じるもの、という考え方だ。『他人の不幸は蜜の味』。
    • 変化量
      • 変化量は、幸福度の変化の傾きが急なほど幸せを感じるもの、という考え方だ。人生は挑戦だ、人生はギャンブルだ、という人もいる。


井の中の蛙』は、井戸の中の世界では、相対的にみて、自分より優位なものはいない。だから"幸せ"だ。一方で、井戸の外には、この諺を唱えた、蛙の観測者がいる。井戸の中より絶対的に優位な世界に居て、井の中の蛙の、絶対量の小ささを哀れんでいる。しかしこれまた、井戸の外には、自分より遥かに富む者が居て、相対量という尺度では不幸に感じるのかもしれない。

井の中の蛙は幸せか


私は、相対量>絶対量>変化量、と感じる人間だ。人と比べて、自分の優位性を確認し、安心する。だから、『井の中の蛙』を羨ましいとさえ思う。井の中の蛙は、歴史に名を残すことは無いが、幸福感に包まれて死ぬのだから。私も、井の中の蛙のような生き方で満足だ。ああ、そうに違いない。そう考えている。いや、考えようとしているのかもしれない。


…現実はそうもいかない。荒れ狂う情報洪水は私を飲み込み、凄まじい勢いで、世界最高峰を観測できる場所まで押し流す。知ってしまったことで、幸福の器の上限が拡張されてしまう。もう、より上の世界を知らなかった頃の自分には戻れない。上を知ることで、相対的幸福を失ってしまったのだ。
蛙だって、たまたま水汲み桶に入っている時に引き上げられ、外の世界を見る機会が訪れるかもしれない。しかし、桶から跳び出す勇気もなく、外の世界に飛び出すことの無いまま、井戸の底に戻ってきてしまった。それでも幸せだろうか。井戸の中の世界だけで満足できるのだろうか。なんとか自分の中で言い訳して、現状を納得するよう説得し、いつか死を迎えるのだろう。そこにある、幸福感は、おそらく、小さい、ものだろう。

私の人生と重ねて


私の人生の節目には、よく似た2択の岐路が3度現れた。高校受験、大学受験、研究室選択だ。どれも共通しているのは、2択となる選択肢の内訳で、

"自分に相応しいレベルで、入るには多少のリスクが伴う*1"
or
"自分にはもの足りないレベルで、入るためのリスクがほとんどない"

というものだった。わたしは、常に後者を選んだ。3度とも蛙の道を選んだのだ。案の定、リスクを取って高みに進む友人を見て、嫉妬し、悔しいと思った。が、自分を納得させるために、今の環境でしか出来ないことをやった。そうやって、自らを説得してきた。また、他の面々よりも自分の優位さを確認して、幸せである、と思い込んできた。

再び、人生の岐路に差しかかる


2009年4月現在、私は就職活動生である。私の就活といえば、やはりというか何というか、世界的な金融恐慌からの各種報道にビビリまくり、最もリスクの小さいと思われる方法で、身分相応だと思い込んでいる企業を受け、そこに決まれば充分かなと思っていた。そう、昨日までは。

昨日、その企業の最終選考で、人事部長の方に、私が人生の岐路を前にしたとき、選ぶ基準にしていたものを、真っ向から否定されたのだ。さらに、私が判断を覆せばその方に迷惑がかかるのを承知で、もう一度、ちゃんと自分で判断するよう求めた。その時は、すぐさま反論しようと思ったのだが、相手の熱意と勢いに押され、相手の話を割ってでも主張しようとしたが止めざるを得なかった。

ここにきて、初めて就職活動で悩むことになった。新たな選択肢を提示されたのだ。いや、今までずっと気付いていたが、目を背けていたものと、ようやく向き合う時が来たのだ。もっと高みを目指すべきか。自分にはそれだけの能力が備わっているのか。わからない。が、得たものがある。どちらの選択肢を選ぼうと、『覚悟』と『責任』は強く持つことができる。


自分の人生、最後は私が責任を持つのだ。

井の外に出た蛙は幸せになれるか


水汲み桶から跳び出した蛙は、幸せになれるのだろうか。井戸の外には、今まで経験したことのない、恐しい体験が待っているだろう。巨大な生物に食われるかもしれない。水場から遠いところで彷徨ってしまうかもしれない。生き残れるかどうか、蛙の持つ『覚悟』が、その差をわけるのかもしれない。こんな酷い目に合っているのは、水を汲んだ人間のせいなんだ、と、責任を放棄しているような蛙は、きっと生きることを諦めてしまうだろう。しかし、井戸の外の世界で生きると『覚悟』した蛙は、窮地に立たされても、自ら生き抜いていこうとする。希望は最後まで捨てない。そして、生き続ければやがて、井の中では絶対手に入らない大きさの幸福を掴むことができるだろう。


私は、水汲み桶から跳び出す勇気を、人事部長から貰った。おそらくこんなチャンスめったにない。


翔んでみよう。


Hash氏に感謝

それでも、長期的にやりたいことをやるためには戦略という名の道筋が必要だ。今の僕にはそれがなく、このままでは独自のミームを残すことなく死滅する。

戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら

私との決定的な違いは、『独自のミームを残すこと』を人生の目的としているところだろう。私自身はとうに諦めてしまっている。理由は、環境*2に恵まれなかったから。だけどこれも、親への責任転嫁に過ぎない。自分で出来ることを全てやる前から、自分には既にハンデがあるからという理由で怠けているだけだった。ただし、我が子には両親よりもよい環境を提供できるという根拠のない自信を持っているので、その役目は我が子に託そうかな、なんても思っていたりした。今思えば、なんて身勝手で言い訳臭いのだろう。見苦しい。


また、

このうち僕がもっとも重視する要素は、最後の 社会勉強としての就活 だ。

「内定してからが本当の就活だよ」 - ミームの死骸を待ちながら

という考えには同感で、最終面接で、他者の選考を全て辞退することを求められた際、それを拒否した*3ために、今回の流れになった。私の説明が悪かったせいか、人事部長には『社会勉強としての就活』に対して同意を得られることはなかったが、変わりに自分を大いに悩ませる言葉を頂くことができた。


id:Hash氏の数々のエントリは私の知的好奇心を刺激し、私の人生に大きな影響を与えようとしている。このことは私にとって、とても喜ばしいことだ。私もいつか、氏の役に立つようなことができるのだろうか。

研究室に入って2年が経つけど、研究に関する知識はほどんど増えなかった。けれど自分と向き合う時間をたくさん持てたし、性格や価値観もまるで変化した。大学には貢献できなかったけど、この経験は人生に貢献した。

はてなブックマーク - key_potpotのブックマーク / 2009年3月26日

プログラマってのはGooglerみたいな人のこと。ITドカタはコーダ。この記事では前者を対象としていて納得。自分は作業ゲーRPGもそこそこ我慢できてしまうので、プログラマには向いてないと思って、そっち方面を諦めた。

はてなブックマーク - key_potpotのブックマーク / 2009年4月23日

私が他所の記事につけた2つのブコメに対して、スターを頂いた。とても嬉しかった。些細だけれど、小さな一歩を、踏み出せたのかもしれない。

いつか私も


憧れのブロガーがいっぱいいる。もしかしたら、自分もそこに辿りつきたいという欲があるのかもしれない。そのような立場ならば、記事ひとつで誰かの人生に影響を与えるというのも不思議ではない。自分の書いた記事が、他人の人生に影響するのだとすれば、それは物凄いことだ。私は自分の体験を、再利用しやすい形で保存しておくことが、自分の生きる価値を確認することだと思っている。人が悩んでいる記事を読んで、物事の考え方を深めてきた。私も、自分が悩んだ際は、記事として出力し、自分の考えを整理するとともに、他人の役に立てられればよいな、と願う。私がブログにおけるROM専という狭い井戸の中から跳び出したのは、やはり外の世界を知ってしまい、今の世界を納得しきれない自分がいたからなのだろう。


私という蛙の冒険は、始まったばかりだ。

*1:つまり、落ちる=1年棒に振る

*2:地方、金銭、情報等。とはいえ、高望みすれば誰だって満足いかないようなものだし、一方で自分は親にとても感謝していて、すごく恵まれているなあとも思っている。

*3:嘘をついてYesと言えばいいものの、面接の手応えから自分は合格しているだろうとたかをくくり、正直に答えて誠意を見せようとしてしまった

家宅捜索するかどうかは管轄の署長の判断

えっと、前回記事のみんな公務員を叩くのが好きなのね - 鍵壺のWeblogでは、家宅捜索はやりすぎだろう、っていう意見が多かったので、家宅捜索の有効性も提示したかっただけなんだ。だから、タイトルが主題というよりも煽りになってしまい、申し訳なかった。

おそらく、皆が心配しているのは、警察の言い掛かり次第でプライベートが暴かれるという恐れと、そんな権力を警察が持っていいのかってことだと思う。多分、痴漢冤罪に近い理不尽さを感じているんじゃないかな。

家宅捜索の目的

前エントリでも書いたとおり、『何故、そのような行為をおこなってしまったか』原因を確定するためだ。もうちょっと言うと、逮捕の罪状を確定するため、とも言える。まず、裸になったの要因が、『飲酒による』と限定することはできない。酒と合わせて薬物も摂取していた可能性があったり*1、特殊な性癖を持っていたり。再犯性が高いと判断されれば放っとくわけにはいかないため捜査する必要がある。これで何かが見つかれば公然猥褻とは別件で、という扱いになる。


で、実際に家宅捜索するかどうか、それを判断するのは、管轄の署長だ。逮捕されればどんな時間帯だろうとすぐ、署長に連絡がいく。そこで容疑者の職業やら素性から、家宅捜索するか判断するのだ。署長が独断で判断すべきでないと考えれば、上層部に相談することもある。今回、どの層の人間が家宅捜索すると判断したかは、わからない。

容疑者の職業

なので、職業、素性が違う人間が、今回の事件と同じような行為をした場合、家宅捜索を行われない可能性もある。例えば、ホームレスや浮浪者ならば家宅捜索などする必要が感じられないし、暴力団関係者ならほぼ家宅捜索される。

今回の場合は、芸能人、社会的に大きな影響力を持つ公人に近い存在であるので、とりあえず家宅捜索したほうがいい、と判断するのが自然だ。もし、今回は家宅捜索しないと判断して、後々大きな問題が起きてしまったとすれば、警察の怠慢だと責任を問われるだろう。なので、『とりあえず、家宅捜索しておいたほうがいい』と判断された。*2


容疑者が一般人の場合、過去に犯罪歴が無くって、怪しいと思われないようならば、家宅捜索されない。このあたりは管轄の署長の判断次第である、としかいえない。

今回の事件について

自分は、芸能界がどういう世界なのかとか、そういう情報を持ってないので、今回の警察の判断が妥当だったのかは、わからない。けれど、警察を一方的に批判するという反応には違和感がある。
どっちかというと、マスコミがあまりにも騒ぎすぎで、もっとひっそりこっそりと報道すれば、こんなに大騒ぎにならなかったのになあ。それでも損害賠償の額の大きさ*3を考えれば、そうも言ってらんないのかもしれない。
容疑者については、特に応援するでも批判するでもないけれど、番組『僕らの音楽』だけは続くようなので、それについては安心した。

*1:今回は尿検査の結果で薬物反応はないので、これはないが。

*2:もしかして、芸能界と薬物やら裏社会の繋がりみたいなものを警察は掴みつつあるのかもしれない、何も根拠ないけど。

*3:詳しくは知らないけど、映画の興行収入とか地デジの影響とか

みんな公務員を叩くのが好きなのね

asahi.com(朝日新聞社):草なぎ容疑者宅を捜索 警視庁、公然わいせつ容疑で - 社会ブクマページが酷い。

何が酷いかって、コメ欄の警察を叩け的な一体感。


ほら、ストーカー殺人とかさあ。『もしあの時ちゃんと捜査していれば、この娘は殺されなかったのに…』とか、ああいう仕事の手抜きとかは叩かれても仕方ないとおもう*1。だけど今回、警察はちゃんと仕事してるんだよ。やり過ぎだって!?いやいや、そんなこと思う前に、家宅捜索に関する法についてちゃんと把握したほうがいいんじゃないか。

第33条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。

http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM#033

第35条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。

http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM#035

あと刑事訴訟法220条とか222条とか。


でね、まあいいや。どうせみんな警察の陰謀論とか好きだろうし、薬物出てこないっかなー、みたいなノリで家宅捜索したんだなって思ってるんだろう。それもあるかもしれないけど、出てきたとしてもあくまで副産物だよ。何故、そんなことをしてしまったのか。その動機について捜査しているんだよ。

例えばのはなしだけど、幼女に性癖がありそうっていうものが押収されたとする。そしたら、公園で全裸ってのもなんか理由がありそうだぞ、と。酩酊状態とはいえ、そこに幼女がいたら*2襲われていたかもしれないんだ。むしろ、幼女を見たのがきっかけで脱いだのかもしれない。可能性としてそういうこともあるんだよ。

で、今回のことを軽く済ませたら、今度は実際に幼女が襲われる事件が起きてしまった。とすれば警察は叩かれる。なんであの時もっと捜査しなかったのか、と。だから、警察としては、しっかりと仕事するってことで家宅捜索したわけだ。


今回は、警察側を擁護するようなコメントが特になかったので、フォロー入れときました。意見がこんなに偏ってるのは気持ち悪いと思わないのかな。

*1:実際は、人員が足りなくて、より重大な事件で手一杯ってのがあるんだけど。そうじゃなければ叩かれてしかるべき

*2:時間が時間なだけに現実的ではないが

相手の考えを想像する努力が、自分の幸せに繋がる

気持ち悪いを読んで。


人間は、自分が理解できないことに直面すると、ストレスを感じる。考え方を変えられれば、ストレスは回避できるようになる。他者を理解することで、自分にかかるストレスを軽減しよう。

あいつら、何にもわかってないんだ!


傍からみると、年少者を嘲笑う年長者は、年少者以上に愚かだ。おとなげない。


例えば、小学生の行為を嘲笑う中学生というのは、よく見られる光景だ。だが高校生になって、あらためてそういう光景を外からの視点で見ると、ああ、あの中学生も恥かしいことやってるな、と感じる。多くの人は中高生時代にそれに気がつくので、大学生になったときは、ある程度バカなことをやってもよいんだとわかっていて、バカなことをできるような奴は、充実した青春やら大学生活をおくることができる。


社会経験がそこそこの『社会の先輩』が、社会人年齢0歳の『新入り』の行動を、気味が悪いと思うのは当然だろう。なぜなら、前提条件が違うのだからだ。社会というものに対して、知識や経験が劣っているからだ。大人から見て、小学生の世界は理解しがたいものがあるが、小学生の世界の中では極自然で成立している。 同じように、『新入り』の世界の中では成立していて、たいして気味が悪くもないのだ。

結構、福利厚生に重きを置いてる会社で、研修でも産業医からメンヘル予防みたいな講義があって。で、大多数が「うつ病なんかなるわけねーじゃん」みたいな反応。おまえらアホかと。間近で、元々目がキラキラしてハキハキ話してたような人間が半年くらいで死んだ魚の目みたいなうつろな目になって、話す際には顔も合わせずボソボソとしか話さない様を見たことあんのかと。まぁ、別の世界の話なんだろうね。

気持ち悪い

何にもわかってなくて当然。気味が悪くて当然。だけど、『新入り』の判断が間違っているとは思えない。もし、『新入り』が『社会の先輩』と同じ、知識や経験を持っていたとして、そのような気味が悪い行動を取るだろうか。おそらくは取らないだろう。何もわかんないなりに、至極まっとうな行動を取っているだけなのだ。


で、普通の人は、俺もああいう時期があったよなーなんて思って、許せてしまうもんなんだ。

他者を批判することが、自らの無能さを露呈することにつながる


年少者を理解できない年長者は、どういう風に評価されるか。

  • 他人にたいする理解力が足りない
  • 昔、そういう経験をしたことがないのだろうか、よっぽど優秀な人間なのか、よっぽど寂しい人間なのかだろうね
  • 多様な価値観を想像し、受け入れられないんだ
  • 器が小さいねえ

共感力とでもいおうか、集団行動に必要なものが欠けていると評価されるだろう。


増田はぎゃーぎゃー騒いで批判しているけど、その姿、傍から見れば、よっぽど哀れだ。他者への理解が圧倒的に足りていない。自分の見える世界だけが全てで、他人の見える世界が想像できないのだろうか*1。想像できないとして、自覚がないのだから、ぎゃーぎゃー騒ぐことに抵抗がないのだろう。

理想なんて投げ捨てちまえ


世の中はマジョリティ向けに出来ている。頭のいい人*2はマイノリティだ。頭のいい人にとっての理想の世界は、頭のいい人がマジョリティな世界なのかもしれないけれど、現実はそうはならない。世の中のマジョリティのために働かなければならないんだ。


頭のいい人は、マジョリティが当たり前のように経験する失敗を経験せずに生きている人が多いので、マジョリティを理解する、というのは、機会に恵まれなければ難しい。かといって、だから仕方ないんだ、と現状を改善しないのでは、生きづらい世の中で一生を過ごさねばならない。それは当人にとって幸せではないだろう。


『実現不可能な目標は、不幸の種』だ。早くそんなもの投げ捨てて楽になれ。理想の世の中を諦めるのは、人のためじゃないとも思うかもしれないけれど、叶わない理想を追いかけるより、現実を少しでも改善していくほうが、結局は世の中のためになるのではないだろうか。不幸の種を握りしめて離さず、ストレスを溜めては撒き散らすような人間は、迷惑だ。本人がマクロな視点で世の中のためになろうと思っていても、身近な人の協力を得られなければ実現できない。


まずは、『実現可能な目標』をセットすることから始めよう。さすれば、他者を受け入れられるようになる。自らのストレスが軽減される。いいことずくめだ。"みんながいいこ"の世の中を目指すよりも、"ひとりでもおおくのいいこ"を増やすために行動することが、自らの幸せに繋る。

元記事について

俺のグループは、俺にも他にnot新卒の男がいたんだけど、そいつの居ない場所で新卒茶髪男が「オレ、あいつ嫌いなんだよねー」とかグループの女の子に言ってんの。視ねよ、てめぇ。そのnot新卒はかなりまともなヤツだったぞ?

気持ち悪い

これに関しては、新卒茶髪男の良識を疑う。その企業の人事って、そういう人間性の持ち主を向かえちゃうような程度の実力しかないのかな。企業を見る目ってのは、人を見る目に繋がるんだなーとあらためておもった。

*1:とはいえ私も、そこまで他者への理解がすすんでいるわけではないので、文章で書かれていないことまで想像するのは、あまり得意ではないので、そこらへんは感覚として理解できる

*2:ここではIQの高い人のこと。なんとなく高圧的な増田が頭よさそーnot賢いな人間に感じたので。

知的プライドの高い人が、本当の意味での頭のいい人になるには

http://anond.hatelabo.jp/20090327205232
http://anond.hatelabo.jp/20090328161801
に対する、
知的プライドの高さは、根拠のない自信へ変えればよい - 鍵壺のWeblog
の続き。まとめも。


知的プライドが高くとも、能力が追いつかなければ、本当の意味で満足することはない。能力がプライドに追いつくように、自分を理解し、鍛えなおす必要がある。

頭のいい人、の定義

私の思っていた『頭のいい人』が説明が、充分にできていなかったので、思っていることが伝えられなかった。自分の能力の低さを痛感している。ここで『頭のいい人』の定義を行いたい。


今までは、


頭のいい人 = 知能指数(すなわちIQ) の高い人


という意味で使っていた。元エントリーを見ると、頭のいい人=知能指数の高い人、と見てとれるので、それに合わせた。

しかし、『頭がいい』というのは、一般的には知能指数が高いだけでは不十分だ。例えば知識が豊富で、専門的な語句ばかり使う人間よりも、誰にでもわかりやすく説明でき、頭の中の考えを他人と共有しやすい人間のほうが、『頭のいい』人だと思われる。これから使う『頭のいい』は、自己の能力を外に活かす能力だと、定義する。


頭のいい人 = 自己の能力を外側に活かす、能力*1

EQの重要さに気づこう

EQって何?っていうのは、正直なところよく理解していない。が、便利な言葉なので使わせてもらう。

1:自分の気持ちをよく知って、それを表現する力
2:自分の気持ちをコントロールする力
3:自分を励まし、やる気にさせる力
4:ひとの気持ちを分かってあげられる力
5:友だちとの関係をうまくコントロールする力

http://www.u-gakugei.ac.jp/~sekiguti/eoikc/atama.htm

ここにあげられた5つの能力*2は、頭のよさ = IQ * EQ と考えてよいくらい重要な要素だ。しかし、小学校から大学までの教育機関で、客観的な指標としてあらわされる自分の能力は、テストの点数や通知表の数値だけだ。テストの点数や、通知表というのは、IQ , EQ との相関関係を見れば、おそらく、IQ > EQ となるだろう。教育機関では、ある程度EQが低くとも、テストの点数さえ取れていれば怒られないので、生きていく上で、また、仕事をする上で、EQがどれだけ重要か、ということに気付けないまま過ごしてしまうかもしれない。


けれど、勉強ができなくとも、幸せに生きている人や、人気のある人が、現実にはいる。だから、その人たちをよく観察して、分析して、大事なのはIQだけではないと気づくべきだ。

EQを身に付けるには

これについては、私の経験してきたことを書く。私のEQについては、まだまだ不十分なのだが、以前よりだいぶマシになってきたと感じている。


私は高校時代まで、頭がいい=知能指数が高い、であると信じていた*3。そのため、文化祭の中心メンバーや、部活の部長なんかも、勉強ができなければ、たいした人間ではないな、と思っていた。しかし、心の奥では、人気者への憧れがあった。しかし、どうやったら人気者になれるかは、わからなかった。


大学に入ってから、そういう人への憧れから、自ら行動するようになった*4。以前より積極的にものごとに参加するようになった。今まで価値観が合わなくて避けていたような人とも積極的に交流するようになった。これが大きかった。価値観が違う、重視する要素が異なる、視点が異なる。世の中は、自分の思っていた世界よりも、もっともっと広くて、色々な考えがあって、色々な価値があって、色々な『正しいこと』があることを知った。狭い世界に生きてきた自分は、叱られ、責められた*5。けれど、その場からは逃げず、どうにか適応しようと、相手の価値観や考え方を吸収した。そうやって、より多くの価値観を身に付けることで徐々にEQ的な能力を伸ばしていった。


自分が正しいと思っているうちは、成長できない。自信を持つことは、チャレンジするのに必要だが、自信過剰であると、失敗から学ぶチャンスを逃してしまう。まずは自分の世界を拡げよう。自分の世界をつきやぶるのが怖いのなら、自分の世界を壊してくれる環境に飛び込もう。いわゆるブラックな肉体労働の世界は、勘違いエリートIQ野郎にとってはよい修行の場となる。

最後に、元増田へ

それでもここにいるのが辛い。
耐えるしかないのだろうか。一発逆転が無理なのだから自分の方の考え方を変えなければならない、けれどどうやって変えたらよいのだろうか。
どうやって折り合いをつけたらよいのでしょうか?

http://anond.hatelabo.jp/20090327205232/

あなたの自己評価の通り、あなたは知能指数が高くて、ものごとを客観的に見ることができる。しかし、仕事に必要な能力はそれらで全てではない。なぜなら、あなたより知能指数の劣っているだろうと思われる*6人たちがあなたの周りにいるのだから。それは何故か。あなたより優れた『何か』を持っているからだ。その何かを見つけだし、それを盗み、自分のものとしよう。


ただし、ひとつ注意がある。相手から何か能力を盗む、ということは、すなわち相手を尊敬しなければならない、ということだ。相手を尊敬するからこそ、自分の取り入れようと思うのだ。私は、人間に対して上位互換になるような他者は存在しないと信じている。事実、私の周りの全ての人間は、何かしら、私より優れた能力を持っている。だから私は、彼ら全てに対して尊敬しているし、新たに出会う人がいれば、まず、相手のいいところを探すところから始めるようにしている。


この考え方は、今まで見下していた人についても、受け入れなければならない。自分の価値観が破壊されるのは辛いかもしれないが、成長に辛さはつきものだ。現状から脱出したいのなら、もっと思考を柔軟にして、現実に対応できるようにしよう。

*1:知能指数の高低は問わない

*2:EQの内容としては間違っているのかもしれないが、そこらへんは気にせず。

*3:10割ではないけど、8割ぐらいは知能指数かな、と

*4:いわゆる、大学でびゅー★というやつです

*5:大学生の年齢にもなって、こうやって叱ってくれる情熱的な友人をもったことは、運がよかった。とはいえ、知り合いを増やすための積極的な行動が実を結んだともいえる

*6:元増田が思っている

知的プライドの高さは、根拠のない自信へ変えればよい

落ちぶれた高学歴の人へ
からの
落ちぶれた「知的プライドが高い人」と受験というスポーツテスト
を読んで。

ちなみに「知的プライドが高い人」って俺の造語だけど、要するに自分は頭がそこそこいい、っていうプライドを捨て切れない人のこと。

落ちぶれた「知的プライドが高い人」と受験というスポーツテスト

知的プライドが高い人についてのおはなし。

知的プライドが高い人になるには

どうやったら知的プライドが高い人になれるのだろう。感覚的には、"特に努力しなくとも人が苦労してしまうものが出来てしまう、という体験が多い"というものではないか*1。もしくは、自分の"IQ"という定量的なものを知ることがきっかけになるかもしれない。

元増田の場合は、

自分は高学歴というほどではないけれど、まあまあの大学を出ている。が、もともとの怠惰な性質やコミュ力に難がある

落ちぶれた高学歴の人へ

という表記を見るに、努力せずとも勉強できるタイプだったのだろう。つまり、知能指数が高いということである。

知的プライドが高いと困ること

自分の能力が高いと思うたびに、プライドがくすぐられて気持ちいいのは
わかるけどさ、それって単なるオナニーだから。

落ちぶれた「知的プライドが高い人」と受験というスポーツテスト

結局、言い訳じみているというか、負け犬が愚痴っているというか、かっこ悪い。オナニーは一時の快楽と引き換えに時間や金を奪うものだ。次に繋るものではない。かっこ悪いだけならまだしも、非生産的である。非生産的なのは愚かだ。だが、オナニー以外の用途がないだろうか。

それって、別に成功へのバネにもならないから。
むしろ、邪魔になってるから。
だって、自分が成功しない理由って、基礎能力以外のところにあるって、
もう気付いてるわけでしょ?

落ちぶれた「知的プライドが高い人」と受験というスポーツテスト

元増田にとっては邪魔になっているのだろう、と増田の目には見えたのだろう。これは事実かもしれない。

だが、私の場合は違った。邪魔になることもあったが、今では有効活用できている。

知的プライドの高さを活かす

自己の基礎能力が他者より優れているとしよう。ならば、他者と同じことをやっただけで、他者より能力を高めることができると考えられる。真似をするだけで、お手本を必ず超えることができる*2!だから、周りと一緒のことをしていればいいんだよ。それだけで自分の優秀さを確認できる。優越感。

また、新たなことを始めるにしても、自分の能力に自信があれば、人よりも楽にできるんだろう?そう考えれば取り組んだほうが得じゃないか。その自信はどこからわいてくるんだ、といえば、それは自分の能力や可能性を信じているからなんだよ。自信っていうのは武器になる。


知的プライドの高い人間なら、自分の高い基礎能力を根拠に、自信を持てるだろう!

知的プライドが高い人は

知的プライドは足枷になるかもしれないが、自信の源泉にもなりうる。多少手を抜いても能力で補える、と思うのは愚かだ。人並の努力を重ねるだけで他者以上の成果をあげられる、と考えたほうがよい。志高く、前向きに、貪欲に、上を目指すことで、与えられた"アドバンテージ"を活かすことができるようになる。

いくら基礎能力が高くても、元手になる賭け金が高いというだけで、
この100倍っていう努力の倍率は変わらないんだと思うよ。

落ちぶれた「知的プライドが高い人」と受験というスポーツテスト

と、あるが。元手の掛け金が高いぶん、努力の倍率は80倍で済んだりするんだよ。それが与えられた"アドバンテージ"なのだから。100倍に磨いている人のそばで、80倍くらい磨くだけで劣等感はなくなる。一緒に100倍磨けば、オナニーせずとも快感を得ることができるだろう。

※追記
続きを書きました。
知的プライドの高い人が、本当の意味での頭のいい人になるには - 鍵壺のWeblog

*1:運動にも置き換えられる。何でもいきなりできちゃう人、みたいな

*2:実際には全てを真似しなければならないが