SNSは傷を舐め合うための場か、情報交換するための場か

なんでオタクって空気読めないコメントするの?
を読んで。

何のためにSNSを利用するか。目的が異なる人たちのトラブルの話。
また、感情を優先する人、知識を優先する人、価値観のすれ違いの話。

コミュニケーション優先型

ネットは調べものとSNS*1ぐらいにしか使わないよ、という層がいる。こういう人にとって、SNSは、集団でやりとりするメールのようなものだ。他愛のない話でも、感情が高まったりすると、すぐに出力する。そうすると、同意・同情のコメントが返ってくる。他人の日記を見たら、同意・同情のコメントを送っておく。本気かはさておき。

彼らは、記事によって知識を得ることよりも、コミュニケーションを行うこと自体を目的としている。電話やメールとはまた違った、集団でのコミュニケーションに便利なツールとしてSNSを使っている。SNSはリアルの延長線上にあるのだ。

このような人たちは、感情が揺らぎやすい、他人と強く依存し合いながら生きたい、周囲の人間への興味が強い。他人からの反応がないと辛い、という傾向、価値観を持つ。
淋しい時、誰かの反応を得られる場が必要で、それを確保するために、普段から馴れ合っているのだ。


知識交換優先型

ネットはバリバリ使ってるよ、という層がいる。こういう人にとって、SNSは、巡回先のひとつに過ぎない。厳選されたブックマーク先の優れた記事に比べれば、内容の薄いやりとりは、つまらないものだろう。相手の日記を見るやいなや、自分が過去に見た似たような記事を脳内検索し、どういう解決に結びついたかというのがすぐに思いつく。そのため、次の展開に進めるように、新たな情報を付け加えたくなる。

彼らは、コミュニケーションを行うことよりも、知識を得ることに重きを置く。2chの文化圏では丁寧語がウザく感じたりする。ひろゆき自身が、挨拶などを「無意味」な情報としていて、コミュニケーションとして合理的でないと考えており、そういう思想が常識となっているからだ。だから、ただの同意・同情コメントには、価値がない。あるのは、ノイズだけである。

また、知識交換の場を設けることは、互いの知識を共有することで、Win-Winの関係を築くことが目的である。もちろん、相手とのコミュニケーションも楽しめるが、知識の共有による、自己の知識の増幅こそが、主たる目的だ。

このような人たちは、感情の揺らぎを人にぶつけることに価値を感じない、他人とはゆるく付き合いたい、人間よりも物に興味がある、という傾向、価値観を持つ。
淋しいと感じるということは基本的にはない。あっても、ノイズコメントをマメに発信するような労力をかけるくらいなら、そんな場は必要ない。


同意されることで得られる快楽、知識欲を満たされることで得られる快楽

両者が決定的に違うのは、何をもって快楽を得られるか、ということだ。
また、彼らがコメントする内容は、自分だったらどうしてもらえたら嬉しいかに従う。

  • コミュニケーション優先型
    • 同意・同情コメントを貰うと、モニターの向こうの相手の人の気遣いに喜ぶ
    • 同意・同情コメントを送るようになる
  • 知識交換優先型
    • モニター上に置かれた知識*2に喜ぶ。
    • 自分の価値観に変化を与えるような批判コメントでも受け入れられる
    • 豆知識コメント、批判コメントを送るようになる


ここで、異なる型の人同士がコメントをつけるとどうなるか。

  • コミュニケーション優先型
    • 前提:モニターの向こうの相手の人の気遣いを重視している
    • 豆知識コメント、否定ニュアンスなコメントがつけられる
    • 何コノ人?自分の知識をひけらかしたいだけなの?なんでそんなにエラソーなの?
  • 知識交換優先型
    • 前提:モニター上に置かれた知識の有用さを重視している
    • 同意・同情コメントがつけられる
    • くそっ、ノイズが増えちまった。こんなコメントないほうがマシだ。


お互い、よかれと思ってやっていることでも、価値観が異なったために、期待したのとは逆にとらえられてしまう。


互いの価値観を理解しよう

この問題について、こっちの陣営は間違ってるだろうと思った人は、危険だ。この問題に絶対の正解はない。
絶対の正解はないが、どちらが適切であるかは判断できる。そのコミュニティを形成している人々が、どちらかに大きく偏っている場合なら、そちら側が、そのコミュニティの「空気」となる。「空気読め」である。SNSのケースでは、コミュニケーション優先型の人が集まる場なので、同意コメントが相応わしく、2chや、ここ増田などのケースでは、自分の見解を述べるほうが「空気」が読めている。

自分のスタイルを貫くのは気持ちがいいのかもしれないけれど、その場を形成する参加者のタイプを見極めなければ、ただの自分勝手なヤツとなってしまう。
よかれと思ってアドバイスしたのに反論された、というのは、相手が求めているものを見ようとしなかったことであり、結果として単なるエゴである。相手のためを思うなら、本心でなくても同意しておけば波風は立たない。本当に大事な相手なら、きっちり指摘してあげたいけれど、相手に指摘を受け入れる準備ができていなければ、その指摘も、ただの嫌味になってしまう。

増田に言及してみる

オタクは同意のためのコメントを書かない。いや、書けないのかもしれない。
豊富な知識を披露したくなるというのは分からなくもない。
オタク同士であれば、情報でコミュニケーションをとるのは珍しくないだろうから。
だけどオタクでない人の日記にコメントする際は気をつけた方がいい。
求められていない情報は、ノイズになる。
自分が何かのオタクだと自覚のある方は、書き込みボタンを押す前にもう一度読み直してほしい。

なんでオタクって空気読めないコメントするの?

この増田の指摘は、大体、正しい。オタクには理解しずらいかもしれないが、正しい。


そして、逆のケースも考えられる。

  • オタク*3は同意のためのコメントは価値が低いと思っている。
  • コミュニケーション優先型の人にとって、オタクがよかれと思ってしたアドバイスは、ただの知識のひけらかしとなってしまう。
  • 逆に、オタクな人の日記に同意コメントすることも、オタクにとってはノイズとなる。
  • オタクは、自分と価値観がまるで違う相手だとわかったならば、本心を捨てて、相手のためにならなさそうな、上っ面だけの同意コメントをぶっぱなしたほうが、丸くおさまる。

なんでオタクって空気読めないコメントするの?

ところで、この増田記事、巧妙過ぎるんですけど…。
これって、「そうそうウザいよねー。」って同意しなかったら、お前は無理解だ。て思われるトラップが仕掛けられてるとも見れる。
増田に書いている時点で、マジレスしていいって理解するよ?

*1:というかmixi。フリーダムSNSとかは含めない。

*2:と、提供してくれた相手のありがたさ(便利さ)

*3:増田の定義するオタクはオタク趣味を嗜む者全般を指していないので注意

自分への"甘さ"が、成功へと導いてくれる

「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点 - ミームの死骸を待ちながらを読んで。

うまいこと、自分説明書ができそうなので勢いで書いてみる。
私のモチベーションコントロールのメカニズムがうまく説明できそうな気がする。

甘えん坊、見参

私は甘えん坊だ。とことん自分に甘い。甘やかされて育ったうえに、自分自身を甘やかして育ててきた。だから最近はなんとかしなきゃ感が結構あるんだけれど、それでも、まだまだ、甘ちゃんだ。*1

そんな私が、何よりも優先してきたこと。それは『我慢しないこと』だ。ストレスなんてもってのほか。とにかく気の向くままに、やりたいことをやる。もちろん、人に迷惑をかけない範囲で。*2

さらに自己説得が得意なので、ほとんどストレスフリーな人生を歩んでいる。だから、ある意味本当の意味での『ゆとり』なのかもしれない。私はゆとり世代ではないが、『ゆとり』なのは間違いない。『ゆとり』と呼ばれても、事実なので否定できない。*3

うーん。自分のことながら、これは情けない人間だな。どうにかならんかね。けれど、我慢するなんて選択肢は選ばない。ここは甘えん坊らしく、『甘え』を正当化しようと試みることにする。

無駄が大嫌い、効率が大好き

夏休みの宿題。私は、最後日までためてしまうタイプである。(面倒なもの残して親に手伝ってもらうことになる)
テスト勉強。私は、一夜漬けで済ましてしまうタイプである。(試験範囲の8割程度しか仕上げられずに臨むことになる)
資格試験。私は、ラスト一週くらいから勉強を始めてしまうタイプである。(過去の合否の成績は負け越しである。)


このように、見積りが甘い。というか、見積ることしない。小学校の夏休みの宿題の"計画を立てる"が嫌いだった。だって、その"計画を立てる"ために使う時間使って、宿題をこなしたほうがいいからだ。いくら素晴しい計画を立てようとも、宿題は1ページとして進まない。同級生の『なつやすみ の けいかく』のページが、とても綺麗に彩られていた。同級生の満足げな顔があった。狂気の沙汰としか思えなかった。

理由が知りたい、言いなりにはなりたくない

今では、"計画を立てる"ことの重要性を、知識として得ているので、どのような計画の立て方が大事か、色々と試している。自分にあったものを模索している。その行動の重要性や、やるべき理由さえ理解できれば、自ら積極的にやってみようという気持ちになるし、そこにストレスはほとんど感じられない。むしろ楽しむことさえできる。

彼らは目標が設定されないルーチンワークが死ぬほど嫌いである。そのため、なるべく短期的かつ具体的に、求める成果を明らかにしておく必要がある。なぜなら彼らは、ゴールを明らかにすることではじめて、必要な資源を検索し始めるからである。

また、彼らは全貌の見えない仕事がルーチンワークと同じくらい嫌いである。
今自分が何をしているのか、全体の中のどこに位置するのか、いまこの瞬間は一体どんな価値を生んでいるのか。これを知らないと不安に押しつぶされそうになる。

「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点 - ミームの死骸を待ちながら

まさにその通りで、私は、よくわからないまま、人にコントロールされて行動することに、とてもストレスを感じる。逆に、同じ行動でも、やるべき理由やら事情やらが判っていれば、ストレスをおおきく減らすことができる。知らないこと、わからないことがストレスなのだ。

だから、子どもの頃は、ストレスだらけだった。頭では理解できるのに、大人は子ども扱いして、ちゃんと説明しようとしない。そりゃあ経験の少ない5歳の子どもに、理解するのは難しい事柄もたくさんあっただろう。けれど、私は説明されればちゃんと理解しようとするし、大人が見積っているよりも理解する能力があった。

私の子どもの頃のことを母にきくと「大人と話しているかのように会話できる子ども」だったという。私の妹や弟を育てる過程で初めて、子どもが理解できるよう、わかりやすく喋らないといけないんだ、と気づいたそうだ。見た目は同じような子どもでも、ひとりひとり得意なものがある。わたしは、運動することや、人や動物の感情を理解するのは苦手だったが、機械の仕組みや、数字や法則や記憶には強かった。だから、子どもというひとくくりの扱いをするのではなく、○○くん、○○さん、と、一人の人間として接するべきだ。


「子どもの頃に戻りたい」とよく聞くが、私はそう思わない。ちゃんと一人の人間として扱ってもらえて、理由を問えば説明してくれる今のほうが、ずっと幸せだ。ただ、大人のいうことをきちんときいていれば、よい子よい子と褒めてもらえる子どもなんてまっぴらだ。言いなりになり続けるなんて嫌だ。理解しないまま褒められるなんて最悪だ。褒められなくてもいい、理由が知りたい。

『我慢しない』を正当化する

試験前にいつも思う…。なぜ、もっと早く着手しないのか。直前で、いつもそう思うのだが、たとえ失敗しても、案外、後悔しない。だからまた失敗を繰り返すのだが…。


例えば2週間後までに終わらせるべきタスクがあるとする。そのタスクをこなすために必要な時間は約40時間。1日3時間程度の出費が必要だ。ちなみに、この3時間というのは、1日24時間中の3時間ではない。私が1日に脳をフル回転させてひとつのことに集中できる時間は、せいぜい5時間程度であり、1日5時間中の3時間だ。割合としては結構デカいものになる。こうやってあらためて分析すれば、他のことに手を出すような余裕はない。けれど、2週間前だと、「まだまだ余裕はあるさー。40時間?3日あればじゅーぶんだよ。」なんて、甘っちょろいこと考えて、自分をごまかしがちだ。だから、毎回、同じように、失敗を繰り返している。そして、大して後悔しない。


普段の私は、その時"これはおもしろい!"と思ったものをやることにしている。効率が大好きなので、"これがやりたい!"と思ってるときに面倒な勉強にとりかかるのは、とても無駄なことに感じる。頭がやりたい事にとらわれて、なかなか集中できないからだ。"これはおもしろい!"と思っているうちにやらないと、後でやろうとしてもその頃にはすっかりモチベーションが下がっていて、やはり効率が悪い。*4


だからタスクを後回しにする。一応、やりたいことを、我慢すべきか、我慢しないべきか、一瞬考えるが、まだまだ余裕があると見積って、我慢しないほうを選択する。そして、"やりたい事"は一定の成果を挙げるので、満足することができる。我慢していれば得られない満足であり、我慢しないほうを選んだことを、正当化するひとつの理由になる。


更にこのあと、少々キツめのスケジュールに書き直し、そのタスクが消化できれば万々歳だ。効率よく、無駄なく、達成することができる。『我慢しない』という『甘え』が、プラスに転じるんだ。…なんてことは夢物語で、たいていは、突発の緊急タスクが入って、ゆとりのないスケジュールは頓挫し、失敗に終わる。なので、『甘え』がプラスになるなんてのは、幻想にすぎない。

甘えの対抗は、義務感

母が甘やかしてくれるのに対して、父はとことん厳しい人だった。だから私は"義務を果たす"ことを強く意識している。本物の甘えん坊なら、宿題の日記なんて面倒だからやらないだろう。だけど、うちではそうもいかなくて、宿題という義務を果たさなければ、自由はないのだ。父が帰ってくるまでに日記を書かねばならないため、父が帰るまでは好きなように甘えて先延ばしすることができるが、最後には必ず書かねばならなかった。

こういう経験から、"追い込まれたら必ずやる"とか、"追い込まれると何故かやる気が湧いてくる"とか、"期日になると何故か出来ている"というような現象が起きるようになった。前に心理テストをやったとき、あなたが最も重視するのは『達成』です。という結果が出たのだが、おそらく義務感の強さのあらわれだったのだろう。

根は真面目なので、やりたくないような宿題とか試験とか仕事とかは、『やるべき感』を使ってなんとかこなす。後回しになりがちなものも、締め切りさえあればそれまでにこなす。この感覚があったからこそ、高校までは、そこそこやってこれた。そして、自主性を求められる大学や、研究において、苦労することとなる。

"どっちかというとやったほうがいいもの"って、やらないよね

だって、他にもやりたいことがあるんだもん。


大学の研究なんて"どっちかというとやったほうがいいもの"の際たるものだ。頭ん中では、もうちょっと頑張れば楽しくなりそう、とか、評価が上がれば嬉しそう、とか、そういう風には思うんだけど、やりたいと強く思うまでの隔りは大きい。

それに研究なんて、よくわからない道程を、色々模索して進んでねっていうものだ。苦労して進んだつもりでも、間違った方向に突き進んでいれば、(研究成果としては)まったくの無駄である。とても嫌いな"無駄"である。どうせ苦労するなら、目に見える形でないと安心できない。まるで砂漠を彷徨うかのようだ。苦労して歩いても、足跡は砂がかぶって消えてしまうし、風景が変わることもない。オアシスが見えてくるかもしれないが、この方向を信じて進んでもよいだろうかという疑念で、次の一歩が躊躇われる。


だから私は長い間、研究に没頭するところまで辿りつくことができず、気付けば、残された時間もあとわずかとなってしまった。

モチベーションをランクアップするため資格試験に申し込む

"今、これをやりたい"という気持ち、『やりたい感』。
やりたくないけれど、やることは決定事項である『やるべき感』。
この2つのどちらかの感覚が生まれたとき、取り組んだものは最後までやり抜くことができた。
どうやら、私の動機の優先順位付けはこんな感じだ。

普段「やりたい感 > やるべき感 > やったほうがいい感」

締切間際「やるべき感 >>>>> やりたい感 > やったほうがいい感」

だから、『やったほうがいい感』なものは、ほぼ、完遂することはない。『やったほうがいい感』なものは、汎用性の広く、価値を発揮できるものが多かったりする*5が、我慢を伴なうため、やはり後回しになりがちだ。


だから、『やったほうがいい感』なものを、自分にやらせるために、資格試験を申し込む。『やったほうがいい感』から『やるべき感』にランクアップさせる。それに、就活の役に立つから、とか、手当てが出るから、とか、そういうエサも一緒につける。そうすると、あまり気がすすまないことでも、ストレスを抑えつつも取り組むことができる。

私が抱えるタスクと、私の取り組み具合を説明してみる

私の研究は、まだまだ成果が上がってないものの、秋に発表の予定が入った。締切が設定され、義務感が生まれた。よって、ここから急加速していくと予想される。それは、『やったほうがいい感』から『やるべき感』にランクアップしたからだ。今の緊急のタスクが終わり次第、通常の最優先事項となるだろう。


実は私は、今週の日曜日に資格試験を受験する。あと2日だ。で、そのためには最低でもあと20時間ほどの勉強が必要で、状況は絶望的だ。資格試験を受けるということは『やるべき感』が発生するはずなのだが、今回はそれが薄い。なぜなら、勉強すること動機を得ることが目的で、資格自体にはまったく魅力が無いからだ。専門用語などの概念はある程度理解することができた。あとは、試験用にカスタマイズされた小手先のテクニックを反復練習して、身体に染み込ませるという、気ののらない作業が待っている。それにどれだけの価値があるか、今の時点では理解できず、資格試験を受けること自体が『やったほうがいい感』に収まってしまった。


そして、今、このエントリを2時間かけて書いている。これはもう正に『やりたい感』のあらわれでしかない。今、かの記事を読んで感じたことを、勢いにまかせて書かなければ、こうやって自分のモチベーションを分析する機会を失ってしまうことになる。だから、今、思ったことを文章として残しておこう。資格試験の勉強?そんなものに本当に価値があるのか?自分には、こっちのほうが大事なはずだ。この記事のほうが大事なんだ。


自分への"甘さ"が、成功へと導いてくれる

このエントリ自体が、自分への"甘さ"を表現したものだ。このエントリにどれだけの価値があるか、わからない。これを書くために考えたことに価値があるかも、わからない。けれど、資格を得るよりもいいものが書けたことに価値を置きたい。それを確認する機会はあるのだろうか…。


それにしても、嫌なタスクを目の前にすると、筆が進む!しみじみ。

*1:だからtwitterで、「○○なのは甘え」ってよくpostしてる

*2:ここ重要!これがないと自分勝手な奴になってしまうので

*3:※本当に呼ぶと、「そうだよっ、ゆとりだよっ!」と、ちょっと嬉しそうな反応をするので注意

*4:勢いが失速して書きかけとなってるエントリがいくつかあるが、再び着手されることはまずないだろう…

*5:各種学習が該当、英語とか資格とか

"自称負け組"の増幅機関

【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´):【武藤舞さん】アキバ通り魔事件から1年だぞー【2009年6月8日】- のウェブ魚拓を読んで。

世の中にこれだけ感情を持つ人たちが潜在していることに、恐怖を覚えた。

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『勝ち組』が没落するのはメシウマか

「他人の不幸は蜜の味」であることが脳科学的に証明される - GIGAZINEというニュースが話題になったことで、『他人の不幸は蜜の味』と感じるのは本能的なもので仕方ない*1と思う人も増えた。自分より優位な人間が没落することで、自分との相対的な距離が縮み、自分の地位があがった、と錯覚できるからだ。これは強弱の差はあれど、誰しも快よく感じることなのだろう。

『勝ち組』の中にも、応援したい人がいる

私は、イチローが大好きだ。心の底から応援している。彼は、幼少の頃から、多くの誘惑を断ち切って練習に励んできた。多くの犠牲を払って夢を掴んだ。今の世界で活躍する姿があるのも、多くの努力を重ねてきたからだ。

ところで、彼は『勝ち組』だ。しかし、彼の失敗を望む者はそう多くない。彼の失敗でメシウマすることはしない。皆、彼が成功し続けることを望んでいる。彼は、『勝ち組』であるにも関らず、皆から応援される立場にあるのだ。

幸せを分け与える存在

『勝ち組』であるイチローが応援される理由。それは、


皆に幸せを与える存在だから


であろう。

まだ記憶に新しい、'09 WBC でのこと。イチローは優勝の立役者となった。サムライJAPANの選手としてチームを鼓舞し、全てを優勝のために捧げた。世界の頂点で日の丸を掲げるために奮闘する彼の姿に、大和民族は心を打たれた。彼の決勝打は、私たち大和民族へ捧げる一打のようにさえ感じられた。


そう、彼は、自分の幸せを実現するとともに、私たちの幸せを実現したのだ。

『負け組』が羨むものとは

被害者の彼女は、容姿、環境、才能に恵まれ、多くの人に羨まれる存在だ。将来も有望で、いずれは素晴らしい業績を成したかもしれない。私たちのために何かを分け与える存在であったかもしれない。それなのに、それなのに、『負け組』の中には、彼女や、彼女の周りの人間、いわゆる『勝ち組』の不幸を喜んだ。自分たち『負け組』より、よっぽど幸せをもたらしてくれそうな彼女らを。


それはなぜか。『負け組』が羨んだのは、彼女の容姿でも、環境でも、才能でもなく、"現時点で持っている可能性"だったからだ。自ら『負け組』と認め、可能性を諦めている彼らは、自分の人生の価値を低く見積っている。自らの命の重さは、私たちが思った以上に軽い。だから、他人の命の重さにも、自らの命と同様の重みしか感じない。

いかにして『負け組』が生まれたか

ここにいる『負け組』は皆、心から腐った人間だと考えがちだ。しかし、多くの人は、望んで『負け組』になったわけではない。突然の事故や病などの不運に襲われたものかもしれないし、優れた教育環境が用意されなかったのかもしれない。良識のない両親に育てられたのかもしれない。それぞれ、私たちと異なる環境で、異なる背景を持って、今があるのだ。だから、全て、自己責任で片付けるべきではない。彼らと、自分と、環境がまるまる入れ替わっていたら、自分がそういう立場だったかもしれない。


私は、結果の平等を求める動きは嫌いだが、"機会の平等はなるべく保証されるべきである"と信じている。困難から逃げ、怠惰を繰り返した、自分で這い上がる気力のない『負け組』たちを擁護する気はさらさらないが、人より機会に恵まれずに『負け組』となってしまった人たちには同情する。何か這い上がるきっかけを与えることができればよい、と思っている。今の時代は情報のやりとりのコストが低くなったため、機会はネット上にいくらでも転がっているはずだ。

潜在的な恐怖

しかし、情報のやりとりのコストが下がったことは、負のエネルギーを増幅する一因ともなってしまった。同族が多く住む空間は、自らを正当化するにはうってつけだ。至極道徳的な、「命を大切にしましょう」なんて納得できない人間たちが、本音で語り、それを共有し合う、慰めの場だ。そうやって不満をガス抜きする効果があるのも事実だ。けれど、それらを真に受けて、自分たちこそ正しいと主張する人間もいる。またいつ、第二、第三の事件が起こるかわからない。


無敵の人には何を言っても無駄だ。守りたいものが多い人ほど、不利だ。だけど、彼らを救う*2ことを諦めてはいけない。彼らを放置するということは、第二、第三の事件がまた起こる可能性を受け入れる、ということだ。運が悪ければ、自分が被害者となるかもしれない。そんな世の中の存在を認めるということだ。私は、日本がそんな国であることを望まない。

"自称負け組"の増幅機関

ネットの負の部分として、今回の記事は象徴的なものだった。ある程度幸せに生きている人にとっては、胸糞悪いものだったに違いない。だけど、彼らは"自称負け組"であって、一方的に批判されるべきではない。彼らを批判することで、彼らの負のエネルギーは増幅し、両者の隔たりは、より拡がってしまう。


私は、彼らを批判する人たちに、もう一度よく、考えて欲しいと思う。彼らが『負け組』となりえたのは、彼らの責任とは限らない、ということを。そして、自分が彼らより余裕のある立場なら、ある程度譲歩してあげられるということを。


私ができることは、この程度の呼びかけくらいだ。だけど、やらずにはいられなかった。なんとかしたかった。だから、この記事をここまで読んで下さった方々には、もう一度よく考えて欲しい。自分がもし、彼らのような環境で、『負け組』として育ったときのことを。

どうしても許せない奴がいる

最後にひとつ。


冒頭のリンク先の記事を読んで、私は憤慨した。その相手は書き込み主のv速の住民ではない。このスレを編集したニュー速VIPブログ(`・ω・´)の管理人だ。編集によって解釈は捻じ曲げることができる。これだけワンサイドの書き込みがあったかどうかはわからないが、被害者蔑視、加害者擁護を抽出し、可視化させた。管理人は何を伝えたかったのだろう。この板の、非常識な感覚を共有している流れを、おもしろおかしく紹介したかったのだろうか。


確かに、2chには板の雰囲気というものがある。本気で被害者蔑視している者から、本気では思っていないがネタで書き込んでいる者まで様々ではあろう。だから、私が必死になってこんな記事を書いてるのを「ネタにマジレスカコワルイ」と思うかもしれない。けれど、私は思う。ネタ扱いしちゃいけないことがあるんだと。その一線は踏み越えちゃいけないんだと。


だから、私は、何よりも、この記事を編集した管理人を許せない。
先の記事は取り下げられているので、更生の余地はあるのかもしれない。管理人は今回の件で何かを学んでいることを望むが、私個人としての管理人に対する感情は終わってしまった。


私はもう、このサイトを観ることはない。

*1:だから正当化できる

*2:救うというとなんだか上から目線に見えるかもしれないが、決してそんなつもりはない

中立という立場を嫌う人

それは中学3年の春のことだった。放課後。臨時クラス会。
テーマは、


『音楽会の曲目について』

中学生と音楽の時間

中学3年生といえば、思春期まっさかりで、やれ恋愛だの、やれ反抗だの、毎日毎日、どこかしらでトラブルが起きていた。けれど、皆それぞれ成長していくもの。不真面目で荒れているような奴が、文化祭なんかで強力なリーダーシップを発揮して、目覚しい活躍を見せたりする。個人だけでなく、集団でも、大きく成長することがある。うちのクラスの場合、音楽会がその舞台だった。


音楽会では各クラス一曲ずつ合唱の発表がある。どうやって曲目が決まるかというと、中学生に相応わしい合唱曲の中で、音楽の先生がそれぞれのクラスに合った曲を選び、「今年の音楽会はこれを歌いまーす」とかいって提案されたものとなる。で、3年目のこの年も、その流れで決まると思われていた。


音楽の先生は、指揮者として優れた能力を持っていて、吹奏楽部を大会で上位入賞させる評判の指導者だった。しかし、教育者としてはいまいちだった。生徒達の心を取り込むことが、あまり得意ではなかった。中学生にとって合唱というのは、子どもっぽい、照れくさいもので、歌うことを強制されるのはあまり好かれない。歌うことを強制する先生と、嫌がる生徒。そういう関係で、残念なことに、先生はあまり好かれていなかった。


特に、いわゆる不真面目グループは、先生が提案した曲なんて一切やりたくないっ!という態度だった。だけど、彼女らは、中学最後の音楽会、このクラスのメンバーで青春してやりたいっという気持ちがあった*1。だから、歌って踊れる楽しい曲がやりたいぞっと。彼女らは自分たちで曲目を決め、楽譜を用意し、先生に提案した。しかし、先生はそれを了承しなかった。そんなわけで、彼女ら"改革派"進行の臨時クラス会が開かれたのだ。

賛成、反対、どちらかに手を挙げて下さい

彼女らが用意した曲目は、某映画の劇中で取り上げられた曲だった。その映画は、英語の授業で観たものなので、クラス全員が知っている。なので、特に説明を入れるわけでもなく、臨時クラス会は多数決を採ることから始まった。


『賛成の人は手を挙げて下さい』


ほぼ全員が手を挙げた。同意するもの、こだわりがないもの、意見はそれぞれだろうが、ともかくこれで、多数決という観点では決着がついた。
しかし、ここで決着とはいかなかった。


『反対の人は手を挙げて下さい』


2つ、3つ、手が挙がった。彼らは彼らなりの意見を述べた。私は、そういう考え方もあると思った。



…ここで、進行役が首を傾げる。…人数が合わない…?

そして、


『手を挙げていない人はいませんか』




私は、手を挙げた。

白か黒かでは決められない。

私は、先生の言うことや決まりをきちんと守る優等生だった。リーダーシップはないが、真面目さを買われて学級長にも選ばれていた。けれど、面倒なトラブルを起こさないぶん、トラブルを対処することが得意ではなかった。今回の騒動も、一部の人が騒いでいるなあ、と傍観していた。学校の決まりの上でのリーダー、でしかなかった。


ただそれでも、音楽に関しては、誇りがあった。私は、合唱部の経験があり、前回の音楽会ではピアノ伴奏をこなし、この年の文化祭ではステージ発表を行うなど、皆の歌を引っ張っていく側の立場だった。みんなは好きじゃないという音楽の時間も、音楽の先生も、割と好きだった。


だから、率直な意見を述べた。


「どちらの曲目に決まろうとも、私は全力を尽くす。ただし、どちらかに味方するという立場はとらない。どちらの意見も平等に尊重したいからだ。」


しかし、


『どちらか決めて下さい』




……こいつら、思考停止か?

中立という立場を嫌う人

再び、改革派と反対派との対話が行われた。どういう心変わりがあったか、反対派は意見を取り下げた。これで今度こそ決着…。と思ったのだが、まだ終わらなかった。中立の私に、賛成するよう求めたのだ。

私は、曲目が決まったら、全力を尽くすし、誰よりも貢献する自信はあった。生半可な賛成派よりも、遥かに活躍できると思った。だから、これで決定してもらえればよかった。けれど、中立の意見を否とした彼女らの態度は気にくわなかった。賛成という立場を押しつけられることも我慢できなかった。だから、私は最後まで、『中立』の立場を貫いた。

泥沼化したクラス会は、担任の一言によって終結した。


『中立という立場も、一つの意見として認めてあげなければいけないよ』


彼女らの世界では、賛成か、賛成でないか、の2つの立場しかなく、中立という立場自体が悪だと思い込んでいたようだ。また、今考えれば、文化祭は全員一丸とならなければいけない!という一種の信仰があったのかもしれない。しかし、絶対的存在である担任の一言により、私の立場は保証され、集団としての意見も一つにまとまったとこととなった。




その後、決まった曲目を、クラスの総意として、音楽の先生に再び提案した。了承をもらい、指導いただけることとなった。私はというと、パートリーダーとして積極的に活動し、それを評価されてメインセンターの4人に選ばれた。音楽会の発表当日も、大成功となり、それまでの年にはない、自分たちで作りあげたという充実感に満ち溢れた。

      • -

中立という意見について

今回、この昔話を書こうと思ったきっかけは、このpostについて思うことが色々あったからだ。

はてブのコメントで客観ぶって「判断は保留」とか言ってるやつが一番チキンで最悪。はてブみたいにあれだけ個人が保護された環境下においても自分の中にまともな判断基準を持てないような輩は普通にポピュリズムに突き動かされて差別とかヘイトスピーチとか何なら虐殺とか平気で荷担しそうな感じ

津田大介 on Twitter: "はてブのコメントで客観ぶって「判断は保留」とか言ってるやつが一番チキンで最悪。はてブみたいにあれだけ個人が保護された環境下においても自分の中にまともな判断基準を持てないような輩は普通にポピュリズムに突き動かされて差別とかヘイトスピーチとか何なら虐殺とか平気で荷担しそうな感じ。"

これを観た瞬間、クラス会でのやり取りがフラッシュバックし、強烈な嫌悪感を覚えた。こいつも彼女らと同じく『中立』を認めないのか。思考停止か。そして、Twitterに反対意見を書き殴ってやろうと思った。で書き出したのだが、

世の中は白黒はっきりつけられないものが多すぎて、とりあえずこっちがいいと思ってもその判断基準は完全ではないし、だからといってそれを恐れては何も意見は表明できないし、むずかしいもんだ。やりなおしができるうちに挑戦すべきだあさ

きぃ on Twitter: "世の中は白黒はっきりつけられないものが多すぎて、とりあえずこっちがいいと思ってもその判断基準は完全ではないし、だからといってそれを恐れては何も意見は表明できないし、むずかしいもんだ。やりなおしができるうちに挑戦すべきだあさ"

反対できなかった。何故なら、前回の記事にこんなことを書いていたからだ。

実現不可能な目標を持つこと、実現不可能な理想を求めるという行為からは、何も生まれない。答えの出ないものに対して、考えこみ、硬直してしまうのは、最悪だ。


失敗は悪ではない。行動によって、成功、失敗のいずれかの善が生まれる。
『行動』自体が善なのである。そして、行動しないこと、が悪なのである。

『自己説得』が『自信』を生み、『自信』は『行動』に繋がる - 鍵壺のWeblog

自分の持っている判断基準が完全であること。これは実現不可能だろう。だから、自分の判断基準が完全になるまで、意見を表明しないというのは、最悪の、最悪だ。もう一度、津田氏の発言を見てみると、


『中立』の立場を叩いているわけではないことがわかる。『自分の意見を表明しない』という姿勢を叩いているのだ。


どうせ議論に参加するのなら、自分の価値を残せよ、ということなのだろう。もっと利己的に言えば、おまえもなんか意見出せよ。ということだろう。その気持ちも理解できる。発信者の側に立つと、発信しただけの見返りが欲しくなってしまうのだろう。私はそう感じた。

「判断は保留」に価値はあるか

では、ブコメの「判断は保留」に価値はないのか。いや、当然、価値はある。ネットリテラシーの高い人がこの記事を読めば、まず違和感を覚えるのだろう。が、見出しの印象だけで、その結論ありきで読み進めてしまう人も大勢いるはずだ。そして、そういう人たちが、はてさて、どれだけ批判コメが集まっているんだろう、とブコメを覗いたとき、多くの「判断は保留」意見に出くわすことで、おや、これは、もっとちゃんと疑わなければならないのか、と気付かされる。


「判断は保留」には、内容の吟味と、今後の動向に注目、という意見が含まれているのだ。

ブコメはその人のメモ帳である

そういう理屈を進めると、ブコメを付けないことが、もっとも悪いとなってしまう。けれど、ブコメなんて基本的には、その人の独り言にすぎない、と私は思う。あくまでメモ帳である、と。だから、それを読んで何を思うかは、コメントを読む受け手の責任だ。だから、書き手や他のブコメにレスしているようなコメントは、何か違うように感じるんだけど*2、それも含めて、受け手の自己責任ってことでいいんじゃないかな。


今回の「判断は保留」については、攻撃的で悪質なコメントではないのだから、こんなことでイライラしちゃうのは、ちょっと幼いんじゃないかなあと思った。

*1:ちなみにうちのクラスは、男子はもちろん、女子グループのいがみ合いというものもなかった。この年頃にしては珍しい仲良し集団だった。

*2:なら本文のコメ欄やらトラバやらしろっていう。けど一方で、ブコメに書いたほうが注目されるので、あえてこっちで描くってことにもなっている現実。

『自己説得』が『自信』を生み、『自信』は『行動』に繋がる

自分の力で『自信』を生み出し『行動』に繋げよう、というお話。

『自信』と『過信』

  • 『自信』とは、"自己を深く把握した上で、自分を信じること"
  • 『過信』とは、"自己に実際より高い価値を与えた上で、自分を信じること"

自身の力量をはっきり捉えることで、『過信』は『自信』に変わる。『自信』を持っているつもりでも、力量が伴わなければ『過信』だ。外からの視点がない限り、それが『過信』だということには気付けない。自分ひとりの時に『自信』と『過信』を見分けるのは、非常に困難だ。


有名なエントリに、

直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。

My Life Between Silicon Valley and Japan

というものがある。この言葉を信じて得られるのは、『自信』か、『過信』か。自らの力で見分けることはできない。


しかし、どちらであるかは大した問題ではない。得られたものが『自信』であろうが『過信』であろうが、両者に共通するのは"自身を信じる"ことである。そして、"自分を信じる"力が、自分を挑戦へと導く。

『自信』は、挑戦する動機となるもの

『自信』は、困難に向かって行動すべきとき、背中を押してくれるものだ。


未知なる物に対峙したとき、普通の人間は、まずは様子見から入り、リスクリターンを考慮して、立ち向かうべきか、退くべきかを考える。しかし、『自信』を持った*1人間は、退くという選択肢が無い。とにかくぶつかるのだ。分岐命令をひとつとばして、実行に移す。『自信』を持った人は、判断が早い。


行動に移すのが早ければ、より多くの挑戦の機会が得られる。若いうちは、いくらでも挑戦して、いくらでも失敗すべきだ。私は失敗を受け入れる。失敗することは、成功と失敗を分けるスレッショルドを確認するために必要なものだからだ。赤子は、この未知なる星で、この未知なる世界で、ひとつひとつ挑戦し、成功と失敗を繰り返して、成長していく。それと同じように、挑戦を積み重ねることで、自分の枠を拡げられる。若者も、失うもの、背負うものが少ないので、失敗できるうちにしておいたほうが良い。そう考えると、挑戦しない若者こそが、罪ではないだろうか。臆病者となり挑戦しないでいるよりは、『過信』して挑戦するほうが得られるものが多い。『過信』も、挑戦のための強力な動機となるのだ。

『自信』のレシピ

"自分を信じる"状態ならば、『自信』だろうが『過信』だろうが自意識過剰だろうが、何でもよい。とりあえず『自信』にまとめることにする。


自分に『自信』を持つにはどうすればよいか。一番、シンプルなのは、思い込むことだ。根拠無しに、できると信じることだ。しかし、そんな人間は危険ではないだろうか。判断能力に乏しい人間ではないだろうか。善悪の判断さえつかないのではないだろうか。


だから、結局のところ、自分自身で考えて、『自信』を持たねばならない。『自己説得』を行わねばならない。


ではここで、本日のメインディッシュを。
私の、『自信』レシピを紹介する。

  1. 自分をとりまく要素、事実、数値を、収集、可視化する
  2. 1.からロジックを*2組みたてる。自尊心を育む
  3. 『自己説得』する。受け入れの証を『行動』としてあらわす。

細かい解説を以下に続ける。

1.自分をとりまく要素、事実、数値を、収集、可視化する

まずは、自分を少しでも好きになるように、材料を集める。よいニュースを報道し続ければ、自分への好感度がどんどんあがってゆく。自分を褒めることは、過大評価に繋がるかもしれないし、甘えになるかもしれない。けれど、過小評価しすぎて塞ぎ込むよりは、よっぽど生産的なはずだ。そうやってこんな材料が集まったとする。

  • 健康、体力、若さ。
  • 知的好奇心旺盛、上昇指向。
  • 過去の学校での成績。自分の能力を示す客観的な指標。資格。
  • 満ち足りている環境。豊富な時間。自由。


これをやっていると、いくらかのネガティブな要素も集まってしまう。これらは、意識的に考えないようにしたほうがよい。より深いところまで考えてしまうと、そのネガティブな縛りから抜け出せなくなる。

2.1.からロジックを組みたてる。自尊心を育む

言いがかりでも何でもいいから、とにかく1.の要素を使って、自分を正当化する。挑戦を褒めまくる。自分でロジックを作り、それを信じる。ここで注意しなければならないのは、ある程度、論理に正当性を持たせなければならない、ということだ。ここで作るロジックは、挑戦し続ける上で、心の拠り所となるものなので、説得力が必要だ。

  • 若さ。若い、つまり、やり直せるチャンスが残されているうちに、背負うものが少ないうちに、多くの失敗を経験しておけ。許される領域、許されない領域を分けるスレッショルドを、経験的に会得しておけ。そう考えれば、失敗を経験することは、ポジティブなものだと考えられる。初めての失敗を喜んで受け入ることができる。ただし、成功にしろ失敗にしろ、行動しなければ発生しない。だから、行動しよう。
  • 健康、体力。人間はいずれ老いていくものであり、20代の今が、健康面、体力面からみても、もっとも充実した時期である。ネトゲやら読書なんかのインドア娯楽は後になってもできるわけで、知識や勉強は一生ものだし、どうせ会得するなら若いうちのほうがよい。だから、最も効率よいのは今勉強することだ。
  • 知的好奇心旺盛で上昇指向がある、ということは、世の中のいろいろなものに自ら触れられる機会を増やせる可能性を秘めている。これは、スペシャリストというよりオールマイティへの生き方だが、どちらにもなれない人は大勢いる。オールマイティな自分を目指して多くの業界を知り、別業界の2つのものを組み合わせ、その分野のスペシャリストとなろう。
  • 過去の自分の成績。IQテストで○○○だった。この数値ならば、人と同じことをしても、大抵の人よりは、多くを学べ、吸収でき、得るものは多い。
  • 今、大学生という立場で、非常に縛りの少ない研究室にいて、毎週がゴールデンウィークのような生活をしている。とにかく自由な時間が多い。


ここで、1.のフェーズで生まれたネガティブな要素も、正当化できそうならば、してしまう。

  • 彼女がいないことは、逆に言えば、背負うものが少ないということだし、目の前のものに集中できるということだ。独り身のうちにやったほうが効率のよいものは、沢山ある。
  • 研究成果は上がっていないのも、教授からのプレッシャーがないからだ。逆に言えば、好きなことをして遊んでいてもお咎めなしで、好きなことに集中できる、最高の環境だと考えることができる。
  • 実家で暮していると、家族の介入によって集中をさ妨げられるが、生活に必須な家事をやらなくてよいので、多くの時間を節約できる。


自己に興味を持つこと。自己を大切に思うこと。自己を信じること。自己を愛すること。自己の価値を見いだすこと。これらが、『自尊心』を持つことだ、と私は解釈している。このフェーズを通じて、『自尊心』が生み出される。

3.『自己説得』する。受け入れの証を『行動』としてあらわす。

『自尊心』を持ち、自己を納得させられるロジックが作れたのなら、あとはそれを受け入れるだけだ。

  • 効率の良さ、という点からみても、今やるのがベスト。だからやるしかない!

受け入れたしるしとして『行動』におこす。最初の一歩を踏み出す。こうして、挑戦が始まる。

最も重要な能力は、『自己説得力』

2.では様々なロジックを作った。ここで何如に"それっぽい"言い掛かりが作れるかの能力が、『自己説得力』だ。これが上手ければ上手いほど、『自信』を持ちやすくなる。そしてこの能力を向上させるならば、何にでも褒めるとよい。褒めるというポジティブなパワーこそが、『自己説得力』に繋がる。


私は、自分に『自信』を持つ人間だが、その『自信』は、頭の中でロジックをこね繰り回すことで、作り上げたものだ。綺麗事だろうが何だろうが、褒められて、おだてられて、正当化する。第三者視点から客観視する自分を作り出し、その自分から、自分へと"お墨付き"をもらうことで、『自信』を持つようになる。そして、その『自信』は行動するためには充分なものである。

実現不可能な欲望は捨てる

どんなに修行しても、かめはめ波を出すことはできない。


実現不可能な目標を持つこと、実現不可能な理想を求めるという行為からは、何も生まれない。答えの出ないものに対して、考えこみ、硬直してしまうのは、最悪だ。そういうものは、気になったとしても、意識的に考えないようにすべきだ。どうしても意識から離れないのであれば、趣味かなんかに没頭し、心を休める時間を作るべきだ。


"人生無い物ねだり"。常に満ち足りていない状態が自然である、と私は受け入れる。他人のものを欲しいと思うのは当然の欲求であるので、それとどう付き合うかが重要だ。だから私の理想の姿は低いレベルに設定してある。『自己の能力に不満を持ち、自己の行動に満足する。』というのが理想の姿である。


行動せねば手に入らない能力を、欲しい、欲しい、と嘆いていてもしょうがない。もし、その能力に向かって行動しているのならば、今できることをやっているのならば、それで充分でないだろうか。それ以上のものは自分には求められないだろう。たとえまだ能力を得ていないとしても、最上の選択肢である、『行動』ができているのならば、その瞬間はそれで満足してもよい。


失敗は悪ではない*3。行動によって、成功、失敗のいずれかの善が生まれる。
『行動』自体が善なのである。そして、行動しないこと、が悪なのである。

このエントリ自体が、『自己説得』である

このエントリも、あのエントリも、客観的事実や正当化されたロジックを並べて、自身を説得するために書いている。そうやって、自分から自分へと与えられた"お墨付け"によって、やっと、行動しようという気持ちが持てる。わざわざこんな文章を書くことが面倒なようにも見えるが、論理武装することで、最後まで投げ出さず、やり遂げることができるのだから、案外、コストも安いものだ。

現状肯定の自己正当化と、綺麗事だらけの理想論。戯言からは何も得られない。ただ行動と、目に見えるその「結果」だけが意味を持つ。

"中二病"の通用しない、行動と結果だけが意味を持つ世界 - ミームの死骸を待ちながら

とても共感した。戯言は、あくまでも行動するための、ひとつの材料に過ぎない。このエントリだってそうだ。書くことで、何かが進むわけではない。行動に移さない限り、無駄なのである。戯言を生むことが目的ではない、『行動』することが目的なのだ。それは、絶対に、忘れてはならない。


ということで、リアルに充実を感じている私は、『自信』を持って『行動』している。『行動』自体を正当化することで、私は毎日を幸福感に包まれて生きている。まだ、手に入ってないものはたくさんあるが、自分の『行動』に納得しながら生きる人生はとても楽しい。こうやってポジティブでいることは、うまい生き方のひとつなのではないかな。

*1:イコール『過信』している、自意識過剰である

*2:強引にでも

*3:ただし同じ失敗を繰り返すことは、行動しないこと、以上の悪である

MacOSXな人へ、Excel , PowerPoint 2008 for Macのチートシートを作ったよ

Excel_PowerPoint_cheat-sheet_for_Mac

ショートカットキー覚えないでマウスで操作するのは甘え

Twitter/きぃ

無意識のうちにこんなことをつぶやいちゃってたので作ってみた。マカーがパワポ使ってる時点で、あれっ?って感もあるけれど、うちの周りはそういう文化圏なので、こういうのが必要かなーと思った。よかったら使ってね。

つくりかた。

ヘルプでショートカットキー一覧を表示して、1つ1つショートカットを試してみて、まあまあ覚える価値がありそう、というものを、Excel*1に入力した。自分用なので知ってるものは載せてないし、使わなそうなもの*2も載せていない。

つかいかた。表のみかた

  • ctr:コントロール
  • cmd:コマンド(りんごマーク)
  • opt:オプション

紫色のところは、知っていると便利そうなもの。個人的に忘れやすいもの。

ここのをダウンロードしてね。

ところで

日記にxlsファイルを添付する方法ってあるんですかね?xlsファイルを直接ダウンロードするほうが便利なのにっ。

*1:方眼マス入りエディタとして使っている…。これはひどい

*2:表計算系…。これもひどい。

ずっと前から、私は、井の中から跳び出していたのであった。

明日は朝早いんだけど、田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながらを読んで、無性に書きたくてたまらなくなったので、今から書く。

私の人生の節目には、よく似た2択の岐路が3度現れた。高校受験、大学受験、研究室選択だ。どれも共通しているのは、2択となる選択肢の内訳で、
"自分に相応しいレベルで、入るには多少のリスクが伴う"
or
"自分にはもの足りないレベルで、入るためのリスクがほとんどない"
というものだった。わたしは、常に後者を選んだ。3度とも蛙の道を選んだのだ。

井の中の蛙は幸せ者だ - 鍵壺のWeblog

なんてこったい。重大な勘違いだ。『蛙』が『井の中』にいるかどうかは、偏差値など組織のレベルや規模で決めるのではないのだ。その組織で自分が選ぶことのできる選択肢の幅広さで決めるものじゃないか。

実は、私は、幸福感に包まれている

高校受験、大学受験、研究室選択での2択で、自分が選択した道を後悔しているのかといえば、

家庭の事情もあるが、受験勉強を真剣にしなかったことは今でも悔やんでいる。
じゃあ今の自分に不満を持っているかといえば、割とそうでもなく、現実に折り合いをつけてやっていると思う。
だけど、自分の人生のifルートって、夢見ちゃうよなあ…。そんなの、考えれば考えるほど不幸になるに決まってんのに。
非生産的な考察イクナイ!現実に立ち向かおうぞ!

人生のifルート - 鍵壺のWeblog

と、書いているので悔みつつも考えないようにしている。実際、後悔しないために、もう一方の選択肢を選んだ自分の、下位互換だけにはならないよう、色々とチャレンジしてきた。


高校のランクをひとつ落としたがために、勉強に分配されたであろうリソースを運動部にまわすことができた。運動に対するコンプレックスを解消できたし、後の大学のサークル活動に繋がる。
大学のランクを落としたがために、家族との交流を増やすことができた。妹や弟の人生に大きな影響を与えることができた。
研究室のランク*1を落としたがために、自由時間を有効利用してサークルでかけがえのない経験ができたし、自己を考察できる自由な時間を得て、価値観を大いに更新することができた。今、こうやってこの文章を書いているのも、今の研究室に所属したがためだろう。入社予定の企業に決まったのも、間違いなく今の研究室のおかげだ。


こう眺めてみると、ああ、 結構しっかりやってるな、と思う。今の友達に囲まれているのも、この選択あってのことだし、自分では今の状況を「充実している」*2と言い切れるので、幸せな傾向にあるのだろう。もうひとつの選択肢を選んだ自分と比較して幸せか、というものは、確認のしようがないが、今の自分に満足しているのであれば、いいじゃないか。あとは、考え方の問題だ。

私の就活における『井の中の蛙』の道とは

そもそも、地方で実家住まいの自分にとって、井の中でぬくぬくと過ごす選択肢として真っ先にあがるのは、そのまま地元で働く、という選択だった。まず、土地と家がある。家族がいる。みんな仲がよいので、楽しい生活を続けられるだろう。お金の心配もない。むしろ多少給料が少なくとも生活費がかからないのであるから、高い給料で首都圏で一人暮らしするよりも、お金がたまるかもしれない。もはや最高の福利厚生である、といっても過言でもない。地元で働くという選択肢は、まさしく『井の中の蛙』の道であった。

都会には、可能性がある。夢がある。

しかし。
私は、早いうちから首都圏で働くことに決めていた。地元企業には一切見向きもしなかった。首都圏を志望した理由はいくつかあるが、id:Hash氏の挙げた、

まず第一に取り上げたいのは、東京にいると機会の数が(文字通りの意味で)桁違いに多いということ。アンテナに引っかかる情報量がそもそも違うし、アクションの選択肢が豊富にある。

田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながら

人口という母数が多いからか、流動的な人付き合いの中でトラッピングされて類は友を呼ぶのかはわからないが、東京にはとにかくおもしろい人が多い。上下幅の大きな出会いがある。

田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながら

この2要素が非常に大きい。

…現実はそうもいかない。荒れ狂う情報洪水は私を飲み込み、凄まじい勢いで、世界最高峰を観測できる場所まで押し流す。知ってしまったことで、幸福の器の上限が拡張されてしまう。もう、より上の世界を知らなかった頃の自分には戻れない。上を知ることで、相対的幸福を失ってしまったのだ。

井の中の蛙は幸せ者だ - 鍵壺のWeblog

もう2年くらい、はてなホッテントリを巡回しているのだけど、当然『井の中の蛙』ではいられない。井の中に居ながら、地表が透けて見えるのだ。

ネットにより機会は平等になったと思いきや、むしろネットを活用して情報を得る習慣を持ちアンテナが高い地方の人ほど、機会の不平等を切に感じるのではないかと思う。

田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながら

○○オフとか、Twitterの「○○なう」「@hogehoge 私も○○なので会いませんか?」*3とか、超うらやましい。うちの地方で何ができるというのだ。*4

もしサーフィンとか山登り、スキーなどの環境依存の活動をやるなら、そうでもないのかな。

田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながら

せいぜい、1限と4限の間のスキマ時間に、ひと滑りしてこれるくらいじゃないか。

実際、下位互換になりたくない私の、『趣味・特技欄』には、『スノーボード』と書かれていたりするのだが。


……。


わたしは実家住まいの割に貧乏(性)学生なので、積極的にお金を消費することに抵抗がある。移動費や宿泊費のことを考えると、東京で、というのは二の足を踏んでしまうのだ。しかし、近所で開催されるのであれば、喜んで参加できるであろう。もし東京に住んでいるのであれば、大抵の開催地は近所となる。とにかく、首都圏に住んで、ずっと指をくわえて眺めてた、楽しそうなイベントに参加してみたいのだ!

新社会人にそんな時間はあるのか

私が企業選びで重視した点は、いわゆるワークライフバランスというやつだ。自由な時間を常に確保して、ある程度自分の人生をコントロールしたい、それこそが幸福への道である、と思っている。前回エントリの井の中の蛙は幸せ者だ - 鍵壺のWeblogでは、ワークライフバランスがあるからここでよい、と納得していた自分の就職活動だったが、友達が受けていたのになんとなく乗っかって受けた業界最大手企業の選考がほいほいと進んでしまい、どうしよう、これは贅沢だ、まいったな。と悩んでいるものだった。そこで、


ワークライフバランス=ぬるま湯→井の中の蛙
業界最大手=荒波→井戸の外へ跳びだす


と例えた。だが、実際に働いてみれば、業界最大手では仕事に打ちこまざるを得ず、自由な時間を確保できない可能性が高い。そのため、選択肢の幅が狭まるかもしれない、という懸念があった。

そう、大地に一歩踏み出して、荒れ狂う野生へと向かってゆく選択肢は、自由時間の多い、当初、希望していた企業だったのではないのだろうか。

ずっと前から、私は、井の中から跳び出していたのであった。

勤務地を首都圏と心に決めている時点で、最初の井戸は跳び出していた。この大地はどこまで拡がっているのだろう。私にとって未知の世界である。ここからは、自分の足でなんとかしなければならない。私に生き抜く力はあるのだろうか。


今は、『覚悟』を持って臨むことができる。自分の決めたことは自分で責任を負うという覚悟を。これは今まで自分にはなかった武器だ。この就職活動を通して、出会った企業の方々、共に切磋琢磨した友人達、互いの顔も知らぬ方々が書いたWeb上のテキスト。色々な要素が混ざり合って、運良く、『覚悟』を得ることができた。これは、非常に心強いものだ!


きっと私は、これからもうまくやっていけるだろう。それは、どの選択肢を選んでも、ある程度はうまくできるのだろうが、ある程度を遥かに超える、『大成功大満足』になるかは、これからの自分にかかっている。


*5

*1:人気ランク。決して学力ではないよ!>同期

*2:リア充、かもしれない。彼女いないけども。

*3:Twitter界隈についてはしらないけど、こーいうのがあるんだよね?

*4:できなくはない。やらないのは甘えだ。けれど、その人にあったハードルの高さってものがある。そういうのにめげずに挑戦できる人は尊敬します。

*5:という考え方で、自分の選択に、折り合いをつけることにする。大事なのは、後悔するくらいなら前を見ろ!ということで、前に集中するために、いかに自分自身を上手く説得するかだ。